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【25/09/19】桃林寺

流山散策後はC84やら仕事やらと忙しかったり、
土日は暑くてどこかへロングライドしようなんていう気分にはなれず、
8月末に桶川まで走って往復100キロ近く走りましたが
運悪く、桶川ではご朱印に巡り会えず。

そんなこの年の夏休みは9月18日~21日の連休に少しあわせて沖縄の石垣島へ行っていました。
友人を二人誘って久々に一人旅じゃないやつです。
大型台風がスタンバイしていましたが。
雨男能力発揮デスヨ。

まぁなんだかんだで台風もぎりぎり直撃は免れましたが。
飛行機に乗るのも高校の修学旅行以来なので10年以上ぶり。
羽田発の8時の便に乗って12時過ぎに石垣島到着。

1日目は石垣島周辺をドライブ。
昼飯に明石食堂で八重山そばを喰いに行ったら長蛇の列で
1時間くらい待たされたけど、それはそれで仕方なし。
そのまま逆時計回りに島を巡って、
ヒルギ群落でちょっと水遊び。
海に足をつけること自体久しぶり。
3年位前に急にオンリーイベントに参加したくなくなって知り合いに愚痴っていたら
サボって海行こうぜ!と誘われて九十九里に行って以来くらい。
南の海は綺麗で良いなぁ…
米原のヤエヤマヤシ群落で緑色の甲虫が葉っぱの裏に密集してるのを見て
うっわあ!となったり、
サトウキビ絞りを飲んだり、
木の葉の形のコノハチョウに興奮したり。
川平湾は風が強くてちょっと雲が出てきて残念でしたが
それでも充分見ごたえがあって綺麗。
そのまま底地ビーチのホテルにチェックイン。
夕日が綺麗なビーチという話だったけど、
ちょっと曇っちゃって…
でも綺麗、見ていて飽きないので晩御飯までずっとベランダでだらっとしてました。
晩御飯はBBQスタイルで食べ放題飲み放題。
まぁそこで食べる以外なにもないんだけれども。
オリオンビールと泡盛飲んだくれて
夜のビーチではしゃいだりして1日目は終了。

2日目はホテルのやってるマリンアクティビティでシュノーケリングを。
見ました?アクティビティにシュノーケリングですってwwwww
前の日に予約をしたときに、
台風接近中なので波が高い場合は中止といわれたけど
ぎりぎり実施可能とのことでした。
とわいえ、
海で泳ぐのなんて20年ぶり以上ですよ。
幼少期に夏の新潟の海で半身浴びた程度ですよ。
かといって、
プールで泳ぐのだって中3以来ですよ。
高校のときは体育の授業でも泳がなかったし。
女子かよ…
なもんで海に入るのに緊張していたのにシュノーケリングですよ。
最初に泳ぎ方や道具の使い方を習って
いざボートで沖のポイントまで行って、レッツシュノーケリングっ!
やべえ、たのしい、はしゃいじゃった。
海中も綺麗。カメラでパシャパシャ。
9時から2時間くらいのシュノーケリングでしたが
充分堪能。
というか体力的に2時間が限界w
ウェアを着ているといっても2時間海中で泳いでいるわけだし。

陸に上がって身体と水着を乾かしつつ休憩。
12時過ぎにチェックアウトして市内までドライブ。
名蔵湾はちょっとごつごつしてて雰囲気が違う。
地元の漁師さんに釣れた魚を見せてもらったり、
足元にいた大量の小さいヤドカリを踏みそうになって焦ったり。
石垣港までドライブして遅い昼ごはん。
やっぱり八重山そばとヘチマチャンプル。
近くに寺院があるのをチェック済みなのでお寺にお参りする事に。

14:20 桃林寺到着

H25092001桃林禅寺

■南海山桃林寺
創建:1611年
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:観音菩薩

1611年、鑑翁西堂の開山により創建された寺院です。
沖縄に侵攻してきた薩摩藩が、琉球国王に寺院建築を進言したのが創建のきっかけで、
八重山地方で初めての寺院だそうです。
日本では最南端且つ最西端のご朱印が頂ける寺院ではないかと思います。

DSC_0169.jpg

沖縄らしい赤レンガの屋根に石垣に囲われた寺院です。
山門はちょうどこのとき修復中だったようで
境内には作業員がちらほら。
参拝客は自分達だけでした。
本堂でお参りして、寺務所でご朱印をお願い。
自分たちがお参りしたタイミングでちょうど住職と思わしき人物が
車で出掛けていったのを見たので
もしかしたら頂けないかも、と思いましたが無事頂けました。

お参りを済ませて近くの「十五番地」でソーセージをお土産に買って
港の近くのタイ式マッサージで癒される。。
なんか、こういうのええやん。
マッサージ終わったら各々好きなようにお土産屋を巡るフリータイムを経てチェックイン。
夕飯は美味い近海マグロがリーズナブルな価格で頂ける「ひとし」を予約していたので
近海マグロを喰らい尽くしました。
他の魚も肉も美味い。
オリオンビールと泡盛で胃に流し込む感じも堪らない。

近海マグロを堪能した後、酔った勢いで
夜の美崎センター通りに向かい、
ホテルに戻る頃には2時過ぎていました…

そんな石垣島旅行は続きます。
ご朱印を紹介するサイトなので写真は特にupしませんが、
もう少し沖縄地方のご朱印が集まったら
同人誌を出したいとは思います。。
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[ 2014年02月25日 23:37 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/13】光明院

流山に隣接し、歩いて50mくらいの距離にある光明院も新撰組ゆかりの寺院。
新選組の主力200名が分泊した寺院です。
勿論お参りします。

H25071302光明院

■赤城山光明院
創建:不明
宗派:真言宗豊山派
本尊:不動尊

創建は不明ですが江戸時代初期には既に存在していたようです。
光明院のとなりには赤城神社があり、
山号からも解るとおり、明治時代までは赤城神社の別当でした。
赤城神社は江戸川の左岸の平坦な土地に盛り上がった海抜約15メートル、
周囲350メートル余りの小山の上に鎮座しており、
この小山は洪水の際、群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきて
ここに流れ着いたものという伝承があります。
この赤城山から流れてきた伝承から「流山」の地名の由来ともなっています。
赤城神社の創建は鎌倉時代とも言われているため、
別当の光明院もそこくらいまで遡れるかもしれません。
赤城山を信奉する上毛野氏の一族がこの辺りに移り住んだのかなぁ。

DSC_8818.jpg

お参りに行ったときにはちょうど庭師が植木の手入れをしていたようで
邪魔にならないようにこそこそ参拝。。
檀家寺のようですがしっかり境内の手入れが行き届いていて、
裏には赤城神社の鎮守の杜もあるので雰囲気もいいです。
境内にはポンプ式の井戸があってどこか懐かしい感じです。
本堂でお参りをして社務所を伺うと住職は東京へ法事(だったかな)とのこと。
ご朱印をお願いすると書置きなら、とおっしゃるのでお願いすると
書置きというかコピーでした…
そういう時もあります。

流山をそのあと少しうろうろして実家へ帰宅。
結局往復で60キロ。
炎天下で60キロ走るとさすがに消耗しました。
冬と夏の自転車は過酷です…
[ 2014年02月25日 22:07 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/13】流山寺

この日もC84用の原稿をしつつ、
流山方面の新撰組の史跡を見に行こうと思い
自宅から自転車でひとっ走り。
ひとっ走りといいつつ20キロ近くあるので良い運動です。
しかも7月。特に走らなくても汗だくになるのに…
そんなわけで家事やら済ませて8時に出発。
荒川を越えてつくばエクスプレスに沿うよいに北上。
そして滝のような汗。
こういうときはコンビニで売っている凍らせたスポーツドリンク500mのやつが便利です。
水分と涼を取らないと死んでしまいます。。
家を出ること2時間半、流山寺到着。
20キロなのに2時間半とかwww
なんかまっすぐ走ってるはずなんだけど結構道を間違えることが多いのです。
川を越えるときに橋がないと大回りしないといけませんし…
と、くどくどと言い訳。
あと、コンビニに2回入ったw

10:45 流山寺到着

H25071301流山寺

■洞雲山流山寺
創建:江戸時代初期
宗派:曹洞宗
本尊:薬師如来

江戸時代初期に創建された曹洞宗の寺院。
時期や開基に関する資料はちょっとみつからないなぁ。
曹洞宗だからご朱印は釈迦牟尼仏かと思ったら薬師如来です。
ちょっと珍しいですね。
流山七福神の大黒天もお祭りしています。
1965年に再建されたため、本堂はコンクリート仕様です。

1868年4月2日、新撰組は戊辰戦争の中で下総流山に陣を敷きますが、
そのときに新撰組が分泊したゆかりの寺院でもあります。
4月3日には近藤勇は新政府軍に包囲され投降してしまいますが、
旧幕府軍および新撰組の戦いはまだまだ続きました。
流山駅前には近藤勇陣屋跡もありますが
ご朱印が頂けるような場所ではないのでスルーしてしまった。。
暑いのがいけないんですよ。

DSC_8813.jpg

境内ではなにやら作業員さんたちが数人いて、
ちょっとお参りしづらい…
参拝客以外が境内に沢山いるとちょっと躊躇ってしまいますね。
写真撮影とかもなるべく入り込まないように気を使いたいし。
本堂でお参りしたら本堂に燕の巣が。
あまり大きな寺院じゃないので(失礼)ご朱印やってないかもなーと思ったけど
ちゃんとやってました。

そんな感じでもう少し流山をうろうろします。
[ 2014年02月23日 22:24 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】神泉苑

新撰組の史跡廻りを目的に京都に来たものの
思ったよりチェックした場所を回れてしまったので
どうしたものか、途方に暮れる。
こういうときに一人でふらっと遊びに行りますね。
京都市内はいろいろもう回っているし…
と、思っていてもまだまだ全然行っていない場所が多いです。

千本通を当て所なく北上していたら
二条まで来てしまった。
そういえば二条城ってまだ入ったことないなぁ…
要予約なのでこの日も勿論入れませんが、ちょっと外観でもとぶらり。
途中で「神泉苑」の看板が見えたので寄り道。

11:45 神泉苑到着

H25070602神泉苑

■神泉苑
創建:824年
宗派:東寺真言宗
本尊:聖観音 不動明王 弘法大師

神泉苑は、元は平安京大内裏に接して造営された天皇のための庭園でした。
794年、平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑でした。
当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、
東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園でした。
当時の平安京の御所は、今の京都御所より西側にあり
今の千本通あたりが昔の朱雀大路と思われます。
そうするとなぜ南西に東寺があるの?という疑問にも解りやすいですね。
今の東寺はまさに東側に、対になるように西寺があり、そこの中心が朱雀大路です。
西寺はもう跡地が残るだけで、今は公園となっていますが。
平安時代の内裏の位置は北は一条通までで
北東の隅に晴明神社、北西の隅に大将軍八神社、
南東の隅に神泉苑、南西の隅が朱雀第四小学校の辺りになるのかな。
まぁざっくりですが。

神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、
824年に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、
空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったといわれています。
善女龍王は雨乞いの対象である龍王のうちの一尊で、
法華経・提婆達多品に現れる八大竜王の一尊、沙掲羅龍王の三女です。
清瀧権現と同一視されます。
さんずいを取ると「青龍」となります。
水神であり日本では滝を神格化した際に同一視されている場合が多いようですね。
本地仏は准胝観音と如意輪観音。
清瀧権現を祭る有名な寺院として醍醐寺がありまが、
醍醐寺にはまだお参りをしていないのでそのときに調べてみよう。メモメモ
高雄山神護寺も清瀧権現を祭る寺院です。
神護寺は和気氏の私寺で、前進の神願寺は和気清麻呂が創建です。
清麻呂の名前にも「清」が入っていますね。
神護寺もまだお参りしていないのでいずれ。
どちらも京都市内ですが、山奥にあるのでなかなか気合を入れないとお参りできません。

863年、都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われましたが
その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。
869年には、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、
その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるといい、
66本の矛を立てた場所が神泉苑の南端、三条黒門通りにある八坂御供社、であったそうです。

DSC_8688.jpg

神泉苑に着いたら母娘の親子が池の近くで散歩をしていて
微笑ましい光景でした。
池の上に善女竜王社が建っているのでまずはお参り。
善女竜王社の右手側に「歳徳神」を祀る祠があり、
毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変えるそうです。
歳徳神は、陰陽道でその年の福徳を司る神で、
牛頭天王の妻であり娑竭羅龍王の娘、頗梨采女と同一視されています。
さてこの「頗梨采女」は娑竭羅龍王の三女ともいわれ、
とすると頗梨采女=善女竜王=歳徳神ということとなります。
牛頭天王と頗梨采女夫婦は素戔嗚尊と櫛稲田姫と習合されています。
八坂神社の祭神と神泉苑の祭神が夫婦というわけですね。

本堂をお参りして、方丈でご朱印をお願いして池の周りをうろうろ。
思ったより大きな池だなぁ
池には結婚式場が併設されていて
池には龍王船が浮かんで、なかなか豪勢です。

さて、お昼も近いのでどこかで何かを食べようか…
と、自転車に戻ります。

[ 2014年02月12日 22:25 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】光縁寺

C84の新刊の原稿をしつつ、色々調べていたら
ご朱印に「新撰組」と入るものがあるというので
こりゃあやっぱり掲載したいなぁ、と居ても立っても居られず、
始発で京都に行ってしまいました。。。
こういうことをしているからお金が貯まらないんだと思います。
旅行は計画的に!

7月なんて、いっそのこと祇園祭に行きたかったなぁ…
祇園祭の時期はコミケも近いことがさることながら、
職場の忙しさがピークで旅に行く元気がありません。
ましてや有給なんて使えない…

そんな事情はおいといて、
始発の新幹線に乗れば、9時すぎには京都に到着します。

京都市内を観光するときは自転車が便利です。
京都駅西洞院口からビックカメラの前を通って進むと
「KCTP京都駅サイクルターミナル」さんがあります。
輪行しないときはこちらで自転車を利用することが多いです。
自転車も普通のママチャリからマウンテンバイク、ミニベロにあり
1日借りても2000円なので、
市内を回るには非常にありがたい。
マウンテンバイクを借りていざ出発。

レンタサイクルのすぐ裏、アパホテル京都堀川通の横には
不動堂明王院があります。
古くは真言宗の密教寺院でしたが、現在は浄土宗西山派となっています。
823年、空海が都南に東寺を賜った時、東寺よりみて鬼門にあたる地に
一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしています。
空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、
その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したといわれています。
その石が本尊であり、霊石不動と称される不動明王像で、
地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっています。
さて、この不動堂は新撰組と縁がある寺院。
1867年6月15日(旧)、新撰組は西本願寺屯所から
この不動堂のある不動堂村に屯所を移転することになりました。
しかしこの半年後の1868年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発したため
不動堂村の屯所は半年しか使われず
今は詳しい史料も残っていないそうです。
と、まずは不動堂をお参り。
ご朱印はなかったようです。

不動堂明王院から油小路をそのまま北へ100mほど進んだところにあるのが本光寺。
実相院本光寺は日蓮宗の寺院。
一般公開されている寺院ではないようだったので外観だけ。
ご朱印もないんじゃないだろうか、日蓮宗だし。
この寺院も新撰組と縁のある寺院。
1867年11月18日(旧)に油小路事件が起こった場所です。
油小路事件は新選組と御陵衛士(高台寺党)の抗争事件。
御陵衛士(高台寺党)は1867年3月10日(旧)に伊東甲子太郎が新撰組を脱退して結党した組織で、
孝明天皇の陵を守るという名目だったため「御陵衛士」。
高台寺塔頭の月真院を屯所としたために、別名「高台寺党」とも呼ばれました。
伊東は藤堂平助の仲介で1864年10月に入隊し、参謀を務めた人物で、
北辰一刀流剣術の使い手で、また水戸学を学んで勤王思想に傾倒していました。
新撰組の中で同じ攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組は佐幕派で、伊藤は勤王(倒幕)を説こうとする方針を巡って確執があったようです。
ただ御陵衛士結党による新撰組からの離脱理由は、
泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、
それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事でした。
同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、
毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、
中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。

1867年11月18日(旧)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受け、
帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されました。
伊東を接待し酒に酔わしたのは、伊東が北辰一刀流の使い手であったために
警戒をしたからだといわれています。
芹沢鴨を暗殺したときも酒に酔わせていますね。
志士は迂闊に酒に酔えない時代でした…
伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われ、
後に収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新選組と戦闘となり、
藤堂・服部・毛内が死亡しました。
残った同士は薩摩藩邸に逃亡し、これにより御陵衛士は解散しました。
伊東らの遺体は光縁寺の埋葬された後、
1868年3月13日、御陵衛士の残党によって泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されました。

ちなみに御陵衛士の生き残りは赤報隊二番隊として、
隊長を鈴木三樹三郎、御陵衛士が中心となって活動しました。
また、この事件の報復として近藤は
1867年12月18日に篠原、加納ら御陵衛士の残党に伏見街道で襲撃されて
鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができなくなりました。
近藤はさらに、1868年4月、流山で幕府軍を募集した際に政府軍に包囲されて出頭、
大久保大和と正体を偽っていたが政府軍として従軍していた加納によって看破され、
捕縛されて処刑に至ります。
なんとも因果な話です。

そんな油小路事件の舞台、の近くにあった本光寺を後にして、
次なる新撰組スポットへ。
堀川通に出て200mも走れば西本願寺に到着します。
龍谷山本願寺は浄土真宗本願寺派の寺院、通称「西本願寺」。
真宗大谷派の真宗本廟、通称「東本願寺」と区別するために
西本願寺と呼ばれることが多いですね。
浄土真宗ではご朱印をやっていない寺院がほとんどなので
勿論西本願寺にもご朱印はありませんが
記念スタンプは3種類ほどあります。
専用の用紙に一応押しましたが、
スタンプ台近くで子供たちがはしゃいでいて、
そこを割ってスタンプを押しに行く勇気がなく、
子供(とその親)の集団が移動するまでしばしの休憩。

西本願寺の歴史は割愛して。
1864年6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛したことによって
新選組の名は一躍天下に轟くこととなります。
8月には禁門の変の鎮圧に参加し、働きが評価され、
朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されました。
9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させ、
新選組は200名を超す集団へと成長しました。
人数が増加したことに伴い、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転し、
約2年ほど、新撰組の屯所として利用されることとなりました。
集会所は現在の総合庁舎と参拝会館の辺りにあったそうです。

新撰組が西本願寺に移ってきたことで
西本願寺の僧侶は大層迷惑したそうです。
境内で武芸鍛錬するだけでなく、スタミナをつけるために獣肉を食し、
200人からの大人が生活するのですから多くの残飯も出ます。
その残飯の処理をさせるために境内で豚を飼い、またそれを食す。
さらには境内で捕縛した志士の拷問や
規律を破った隊士の粛清もするのです。
そんな新撰組との共同生活に嫌気が差した本願寺は
全額負担で不動堂村に新しい屯所を作ったわけですから
どれほど本願寺側が頭を悩ましたか解りますね。

本願寺の寺務所では冷たいお茶をサービスして頂けるので
喉の渇きを潤せました。
7月の京都は暑い。

西本願寺をお参りして次の寺院へ向かいます。
堀川通をそのまま北上して四条通で左折すると
嵐山本線の四条大宮駅に着きます。
綾小路通に入ると目的の光縁寺が見えてきました。

10:50 光縁寺到着

H25070601光縁寺

■満月山普照院光縁寺
創建:1613年頃
宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来

浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。
こちらも新撰組と縁の深い寺院です。
光縁寺は新撰組が屯所とした壬生寺や前川邸から徒歩5分と近く、
門前近くには新撰組の馬小屋があり、毎日門前を隊士たちが往来していたそうです。
また、この寺と山南啓介の紋所が同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であったことから
山南と当時の住職良誉上人との交際が始まり、
亡くなった隊士の埋葬を依頼したのではないかと言われています。
過去帳には、隊士のほか新選組に縁のある人を含めて28人の記載があり、
墓地には四基の墓が現存しています。
墓地は史跡でもありますが、現役の墓所でもあるため、
静かに参拝するように注意書きが。
とはいえ、この日は自分しか参拝客は居ませんでした。
拝観料ではないですが、維持費として100円を納めてお参り。
ご朱印をお願いして墓地へ。
新撰組隊士の眠る合同墓地に手を合わせました。
おお、本当に「新撰組」って入ってる。かっこいい・・・

DSC_8583.jpg

光縁寺を後にして前川邸と八木邸を外から見物。
そういえばちょっと前に八木邸で所得隠しがあったなぁ…なんて思いつつ。
やっぱり新撰組は儲かるんですねw
すぐ近くには壬生寺もありますが、
何度かお参りしているので門前から遥拝だけ。
正面の新徳寺も新撰組所縁の寺院ですが、
やはりここも「史跡」として公開している寺院ではないようです。

折角なので新撰組も夜な夜な遊びに行ったという島原へ行ってみました。
山陰本線丹波口駅東側の辺りが当時の花街だった島原。
昔、小さい頃に家族旅行でこの界隈を見た記憶がありますが
京の街の風情が残っているとはいえ、
子供を元・花街に連れて行く父親とは如何なものだろうか。
祇園に比べて今は風情があるだけで繁華街ではないからいいっちゃいいか。。
幕末には新撰組のほかに、西郷隆盛や久坂玄瑞も出入りしていたそうです。
「角屋」は文化財であり、今は内部を公開していて美術館となっています。
「輪違屋」は現在も営業されているそうで、内部は勿論見れません。
「輪違屋」の近くには歌舞練場がありましたが
いまはデイサービスに建て替えられてしまったようです。
時代を感じるなぁ…

一頻りチェックしておいた新撰組関連の史跡は廻ってしまったぞ、と
ふらふらしていたら壬生寺の近くで「冷やし飴」屋さんを見かけたので
暑くて喉も渇いたし、と思って店を覗いてみるとおばあさんが一人でお店番。
冷やし飴は関西では有名?な生姜飲料です(ザックリ
小が50円で大が100円なので大を注文。
ジョッキになみなみと注がれて、薄っすらシャーベット状になっていて
涼を取るにはちょうど良いです。
まぁこのご時勢、自動販売機がそこかしこにあるので
「冷たい飲み物」なんてのはどこでも手に入りますがね。
冷蔵庫の普及する前は大層重宝されただろうなぁ。
店主のおばあさんが話好きなようで色々話してくださいました。
戦争が終わってすぐに借金をして冷やし飴を作る冷蔵庫を買ったことやら、
昔は近所に幾つか冷やし飴屋があったけどほとんど無くなってしまったことやら、
この商売で頑張って家を建てた話やら年金を貯めて色々海外旅行へ行った話しやら。
おばあちゃんももう齢80を過ぎているとのことで
このお店もいつまでここで冷やし飴を売っていてくれるのかなぁなんて思ったり。
[ 2014年02月11日 21:55 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)


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