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【25/5/1】玄武神社

船岡山を後にして、さてどこに行こう。
京都は何度も行っているのでどこへ行こうか迷います。
で、ああ、あのときに行っておけば…となることも多々。

少し行けばそこかしこに寺社はあるのだけれど
歴史が古かったり所縁が深かったり、なるべく手当たり次第に、
というお参りよりは興味があるところからお参りしています(主観
と、先に出た玄武神社にお参りしよう。

H25050105玄武神社

■玄武神社
創建:878年
祭神:惟喬親王

祭神は文徳天皇第一皇子・惟喬親王でちなんで「惟喬社」とも呼ばれました。
名前の由来は四神相応の北方守護の玄武からかな。
玄武が亀であり、境内に亀の像があるので「亀の宮」とも。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子だったものの
母が紀名虎の娘で紀静子で、藤原氏が台頭しだした時代に
紀氏としては後ろ盾が弱かったため
藤原良房の娘・明子が母である第四皇子・惟仁親王が皇位を継承となり
立太子できませんでした。
文徳天皇は仁明天皇の第一皇子で良房の同母兄弟・順子の子、
承和の変によって恒貞親王が廃太子になった結果
皇位を継承しました。
承和の変は藤原北家最初の他氏排斥事件で、
このときに藤原他氏のほかに紀氏、橘氏・伴氏など多くが処罰されました。
そんな良房の息のかかった文徳天皇もまた
脳卒中で崩御し、良房の娘・明子の子惟仁親王が清和天皇として即位するわけですが
文徳天皇の名に「徳」と入っているので
個人的には良房(の一派)による暗殺じゃないかと勘繰ってしまいます。
ただ、文徳天皇を祭神とする神社はちょっと見当たらないなぁ…

さて、そんな父と兄弟関係だった惟喬親王は成人すると
大宰権帥に任ぜられ、その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任します。
あまり出世したというよりは冷遇されていた感じがしますね。
体調を崩して出家した後は近江国滋賀郡小野に隠棲し、54歳で亡くなります。
生前は、在原業平・紀有常らと交流があったといわれます。
紀有常は祖父・名虎の子なので叔父さんですね。
在原業平は側室に有常の娘がいるので
みな近親者であったようですね。

社傳によれば、惟喬親王愛藏の名虎から貰った剣を
元慶二年(878)に大宮鄕鄕士星野市正源茂光が祀ったのことが始まり。
星野市正・源茂光は北区・若宮八幡宮の神職。
ただし別名を紀茂光とも言われているので
やはり紀氏所縁のものが惟喬親王を祭っているのではないかな。
承和の変で打撃を受けた紀氏にとって惟喬親王の立太子は
起死回生の最後の手段だったのではないかと思いますが
名虎は惟喬親王が3歳のときに氏に、夢は叶いませんでした。
その後の紀氏は政治の世界というよりは
文人歌人として名を残していきますが
現代において藤原氏の名前は歴史の教科書でしか見かけないけど
(一部は旧華族として財団法人やら大企業の関係者として名前は見えるけど…
「土佐日記」や「古今和歌集」のような作品が愛されているのだから
良し悪しですなぁ。

DSC_6710.jpg

境内は住宅街にあるためこじんまりとしています。
お参りしてご朱印を頂く。
社務所で軽くお話。
あまりお参りに来る人は多くない(らしい
というのに東京から来るなんて珍しいとか。
況してや自転車で東海道から来た(軽く盛っているけどもう慣れた
なんて貴重な参拝客だったらしい。

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[ 2013年10月27日 14:53 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】建勲神社

さて、千本閻魔堂からどこに行こうか、とグーグルマップをチェック。
よし、船岡山へ行こう、と自転車を軽く走らせる。
船岡山は平安京の中軸線である朱雀大路の真北に位置します。
四神相応思想では都を築くには
東の青龍が河川、南の朱雀が汙池、西の白虎が大道、北の玄武が丘陵があると良いとされ、
平安京遷都の際には、この条件に基づいて山城の地を選んだともいわれ、
東に鴨川、南に巨椋池、西に山陰道、北の船岡山が該当します。
ただし、この「丘陵」は高い山を意味するもので、
丹波高地が該当するのではないかとも言われてますが、
その辺に関しては「いくつ該当する地があってもいいじゃない?」と言った具合で
あまり激しい議論は展開されていないみたいですね。
まぁ船岡山の麓には玄武神社があるし、良いと思う。。

そんな船岡山の山頂には建勲神社が鎮座しています。

H25050104建勲神社

■建勲神社
創建:1870年
祭神:織田信長公

建勲と書いて「たけいさお」と読みます。
ずっと「ケンクン」と呼んでましたw
織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀しています。
1869年11月8日、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるため、
健織田社の創建が明治天皇により決定されました。
織田信長が朝儀復興とは、なんとなく見当違いな感じがしますが、
徳川政権が終わったことで、その前の織豊政権を際立たせて、
徳川家が謀反者の作った覇道であり、
明治天皇の世になって王道政治になったことを強調したかったのかな。
1870年10月17日、織田信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の東京の邸内と
織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営され、
1880年9月、秀吉の手によって信長の廟所と定められた船岡山に
社殿が竣工して東京より遷座したのが始まりです。

ちなみに、名刀・義元左文字は建勲神社に奉納されています。
戦国時代、三好宗三から武田信玄の父・武田信虎に贈られた刀で、
信虎が今川氏と和睦を示すものとして娘・定恵院を嫁がせる際に一緒に持たせ、
その婿・今川義元が自分の愛刀として大切にしたことから「義元左文字」と呼ばれます。
桶狭間の戦いで信長が義元を破ると、信長の手に渡り愛用され、
本能寺の変後は秀吉が所有し、死後は秀頼に受け継がれ、
さらに、秀頼から徳川家康の手に渡り、これ以降、徳川将軍家に代々受け継がれていきました。
このことからこの刀は常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると言われました。
明治になり、徳川家から奉納されました。
一度見てみたいなぁ。
京都国立博物館に委託されているけど、常時展示じゃないんだよなぁ。
京都に行くと博物館よりも寺社巡りを優先してしまうのだけど
文化財見るなら博物館だよなぁ…

DSC_6619.jpg

自転車を参道の入り口においてお参りへ。
船岡山というくらいなのでもちろん山。
結構階段が多く、やっぱり足に来ました><
まぁ、平常時なら問題ないのですが、4日走ったあとの足にはきつい。。
ひいひい言いながら山頂へ。
京都の町並みや比叡山を一望できるいいスポットです、景色がいい。

境内は綺麗に管理されていて、気持ちがいいです。
お参りしてご朱印をお願い。
結構迫力のある字でした。
[ 2013年10月26日 12:34 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】引接寺

千本釈迦堂をお参りしたので千本通りを北に向かって
引接寺にお参りしよう。

H25050102引接寺

■光明山 歓喜院 引接寺
創建:1017年
宗派:高野山真言宗
本尊:閻魔法王

通称「千本閻魔堂」。
引接とは、仏が我々人間をあの世に導いてくれるという意味とのこと。
京都の墓所「蓮台野」の入り口に当たる寺院です。
京都には「化野」「鳥辺野」と3大墓地がありました。
「野」と付く地名は旧墓所ですね。
ちなみに「化野」は嵯峨の念仏寺のあたり、
「鳥辺野」は清水寺南側に広がる地です。
墓地への入り口のため、閻魔法王を本尊としているのかな。
「鳥辺野」に埋葬された、まぁ古くは鳥葬・風葬だったともいわれますが、
人々を供養しようと建てられたのが清水寺、ともいわれていますが、ほんとかな…
鳥辺野の入り口にあたる六道珍皇寺にも閻魔堂があり、
その閻魔堂があり、小野篁が夜な夜な井戸から地獄に入り、
閻魔大王の裁判の補佐をした、という伝説があります。
化野にも福生寺という寺院があり、ここの井戸も地獄に通じていた、といわれていますが
すでに廃寺になっています、残念。
墓所の入り口には閻魔大王を配すると言う、暗黙のルールがあったのかな。
墓所=地獄と見立てるのは当然か…
今みたいな墓地として管理されていたわけではなく
うち棄てられていたものも多かったというし。

そんなわけで、源信の弟弟子の定覚により開山されたとも、
小野篁が開基、ともいわれています。
定覚は慶派の仏師で運慶の弟、とも。
境内には紫式部の供養塔もあります。
なんでだろう。

DSC_6594.jpg

本堂で閻魔様をお参り。
ご朱印をお願いして境内を散策。
普賢象桜が有名とのことでしたが、
さすがに5月の頭なのでもう散っていました、残念。。
[ 2013年10月26日 11:38 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】大報恩寺

さて、平野神社をお参りしていたら9時を過ぎたので
改めて大報恩寺へ。

H25050101大報恩寺

■瑞応山大報恩寺
創建:1221年
宗派:真言宗智山派
本尊:釈迦如来

通称「千本釈迦堂」。
1221年、求法上人義空によって創建されました。
義空は奥州藤原氏3代藤原秀衡の孫にあたる。
千本釈迦堂は洛中で唯一、応仁の乱で焼けることなく創建当時の木造建築が残っているため
本堂は国宝とされています。
京都は応仁の乱以降戦火に見舞われることが多かったので
ほとんどの寺院が再建されたものなので
大変珍しい。
応仁の乱で西軍が陣を敷いたのがこの地で、
総大将である山名宗全の計らいで戦火を免れたといいます。
故にこの辺一体を「西陣」と呼ぶわけですね。

DSC_6464.jpg

本堂で手を合わせご朱印をお願い。
本堂への一般拝観は無料だけど
霊宝殿に入館するには500円(だったかな)を支払って中へ。
仏像の保存状態の良さもさることながら
これだけ立派な仏像を目の前で見れ、迫力があります。
六観音が勢ぞろいしている寺院はここだけとか。
2m級の仏像が多く、仏像マニア必見ですよ。

千本釈迦堂は防火対策がそれなりにしっかりしていますが
今まで見てきた寺社では防災防犯対策があまりにも緩い…
というところも幾つかありました。
この時代(伝)の仏像や厨子をそんな保管でいいの!?と。
線香の火や蝋燭から失火する寺社から放火、
果てには海外から仏像を盗みに来ては自国の国宝に据えよう、という
連中までいる昨今なので
文化財保護にはそれなりに税金を費やして管理してもいいかなと思う。


[ 2013年10月14日 17:26 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】平野神社

北野天満宮から程近い平野神社へお参り。
こちらの神社は初参拝

H25050102平野神社

■平野神社
創建:794年
祭神:今木神 久度神 古開神 比売神

794年、桓武天皇による平安京遷都にともない、
平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まります。
約40年後に比売神も祀られるようになりました。
今木神を今木大神と表現していることから主祭神である可能性が高いです。
「今来(新来)」の意で、百済から渡来した和邇氏の祖神といわれます。
久度神は北葛城郡王寺町久度に鎮座する久度神社に祭られる神で竈神、
阿倍氏の一族である久努氏を祭る神社ともいわれます。
古開神は斎火の守護神で久度神は同一ともいわれています。
比売神は光仁天皇の皇后高野新笠姫で神を奉斎する女性。
平野神社は桓武天皇の母・高野新笠と縁が深い神社であるようですね。
高野新笠は百済武寧王の子孫とも言われます。
阿部氏だけ異質に感じますね。

DSC_6563.jpg

平野神社境内は様々な種類の桜が植えてあり、
5月上旬でも数種類のものが楽しめました。
他にも紫陽花や様々な花が植えてあってなかなかゆっくりするにはいい神社。
[ 2013年10月14日 14:14 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】北野天満宮

6時半にしっかり目覚めてチェックアウト準備。
一応ホテルに連泊交渉したところ
この日は埋まっているというので残念。
別のホテルを探さないと…駐輪場付きの。

さて、どうしたものか、
いざ1日京都を観光するにも余り考えていないので
お参りしていないところをぐるっと回ろう。
まずは現存する京都最古の木造建築である国宝・千本釈迦堂にお参り、
と8時に着いたらまだ開いていなかったので
近くの北野天満宮へ行くことにしよう。

H25050101北野天満宮

■北野天満宮
創建:947年
祭神:菅原道真

祭神は菅原道真。
903年、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、
都では落雷などの災害が相次いだため、
これが道真の祟りだとする噂が広まり、
没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈る。
942年、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、
5年後にも近江国比良宮の神官良種の7歳の子・太郎丸に同様の託宣があったことから、
太郎丸と文子は北野朝日寺の僧・最鎮と相談して祠を設けたのが始まり。
947年6月9日、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営されました。
比良宮は今は、滋賀県大津市比良の樹下神社と共に祭られています。
文子は東本願寺裏の文子天満宮に祭られています。
多治比文子は何者かということに関しては、伝承では道真の乳母であったとされていますが、
年齢的に辻褄があわない。
多治比氏は宣化天皇の三世孫多治比古王を祖とする氏族で
子・多治比嶋は持統天皇時代には右大臣となった人物。
785年、子孫の多治比長野の娘・真宗が桓武天皇夫人となり、
その子が葛原親王であり、桓武平氏の祖となります。
しかしすでに多治比氏は757年の橘奈良麻呂の乱や
785年藤原種継暗殺事件に関与したとみなされ、
すでに朝廷での影響力は失われています。
藤原種継暗殺事件で処刑されたタイミングで
桓武天皇の元へ入内していることが意味深です。
藤原種継暗殺事件では多治比氏のほか、首謀者として
大友氏や紀氏など、多くの有力貴族が処罰され、
桓武天皇の弟の早良親王までもが流刑にされました。
早良親王は無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中で憤死します。
この時代の貴族はよく「憤死」しています。
みんなデリケートな性格の持ち主ですね。
さて、この藤原種継暗殺事件によって
藤原種継が推進していた長岡京への遷都も推進力を失ったことと
早良親王の祟りを思わせる災害や疫病の流行があり
794年、桓武天皇は今の京都へ都を移して平安京を築くことになります。
早良親王の祟りは収まらず、
800年、崇道天皇と追称され、今は御霊神社に祭られています。

ここまでを踏まえて、
北野天満宮造営までの流れを考えると
・左遷先で道真死亡
・京で落雷など災害、有力者の急死多発
・朝廷、怨霊ではないかと疑う
・没落した多治比氏の末裔や大伴氏と関わりが深い近江の神官が道真鎮魂を訴える
怨霊が祟るのは、死者の怨念が何かしら超自然的な現象を操るわけではなく。
祟られる側に疚しい気持ちがあり、それと不幸が重なると「祟り」になるわけです。
道真左遷も種継暗殺事件も首謀者が誰かを貶めた結果、
怨霊が出てきているのですが、
さて、その怨霊の仕業であるから彼らを祭るべし、と訴え出たのが
そうした謀略で没落した氏族達であるという点もまた面白い。
ちなみに道真の母は伴氏(旧・大伴氏)の娘なので大伴氏と接点もちゃんとあります。
菅原氏は天穂日命の子孫で、野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫で
750年、菅原古人は「菅原姓」と賜った氏族です。
土師氏は殉死者の代用品である埴輪を発明したことから与えられた名で
技術者集団である性質上、やはり渡来人だったと考えるのが妥当かな。
大阪府藤井寺市の道明寺一帯が土師氏の本拠地であり、
道明寺が氏寺、隣接して道明寺天満宮があり道真を祭ります。
野見宿祢については、
大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、
出雲に住む相撲を取ったという逸話が残ります。
野見宿祢は出雲出身であるということは、道真の先祖は出雲系かと思いきや、
おそらくここでいう「出雲」は桜井市初瀬にある「出雲」であると考えられます。
桜井市初瀬の長谷寺には與喜天満神社という
948年に天満宮となった神社です。
(創建自体は北野天満宮よりも古いとも)
土師氏の根拠地であったとも言われる地なので天満宮を祭ります。
この長谷寺は十一面観音の立派な像がありますが
菅原道真の本地仏は十一面観音。
長谷寺の本尊に倣って道真の本地仏にされたと
勝手に思っています。
あまりこれを指摘する文献は見ていないので。
しかも十一面観音の脇には春日明神(難陀龍王)と天照大神(雨宝童子)を配し、
藤原氏の氏神と天皇家の皇祖神の真ん中に
菅原道真の本地仏である十一面観音があるという、
この地の人々が、十一面観音を祭ることに偽装して
自分たちと縁のある道真を1000年手厚く奉じたんだろうなぁと空想。

DSC_6514.jpg

北野天満宮も参拝は4回目くらいかな。
ご朱印は2度目。
大きな神社ですがオリジナルのご朱印帳はないので
ご朱印帳忘れちゃったけど買えばいいか、と思ってここに寄っても
ご朱印帳はないのでご注意。
まぁ過去にそれをやったわけですが。
境内は朝早い時間だったので人はまばら。
学問の神様なので修学旅行生も多く参拝に来ますね。
[ 2013年10月14日 13:03 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】東寺

さて、近江神宮を後にしてゴールの三条大橋を目指します。
14:07 大津駅から1号へ合流。
箱根だの鈴鹿の峠がきつい、という話ばかり聞いていたので
京都まではもう楽に行けると思っていたけれど
最後の最後にこの逢坂の関がけっこうきつい…
蝉丸神社もお参りする予定だったけど
なんだかんだで疲労が出て諦めました。
14:26 京都府入り
やっと京都です。
長かった…三条大橋まではすぐそこ。。

と、思っていたのに。

最後の東山トンネルの入り口までの坂がきつすぎ!
交通量多すぎ!
トンネル入り口までの側道がせますぎ!

自転車で走っていいのかなぁ…
という不安に負けていったん戻り、
三条通を使うことに。
今地図で見ると東山トンネルに旧道?みたいのがあるから
そっちから抜けられたのかな…
世間の自転車乗りはみんな東山トンネルを抜けるんだろうなぁ。
でも自分は安全第一。

そして東海道の旅最後の日ノ岡峠を越える。
九条山めっちゃきついやんけ…
15:09 峠越え
峠を越えれば後は下り坂。
途中で南禅寺が見える。
ああ、ゴールも近い。

そしてついに~
15:21 三条大橋到着

長かった京都への東海道旅も一応終止符。
でもまだ清見坂を越えていないので
そのうち走りに行かないと。
それが終われば「ご朱印日和。 東海道編」の執筆に入ろうかな。

さて、京都のご朱印はどこにしようか。
京都といったらココだ!というと
五條楽園です、と答える自分ですが
とりあえず京都駅近くの東寺に行きましょう!

H25043006東寺

■金光明四天王教王護国寺秘密伝法院
 (弥勒八幡山総持普賢院)
創建:796年
宗派:東寺真言宗
本尊:薬師如来

通称「東寺」。
嵯峨天皇から空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた寺院です。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
修学旅行生から観光客まで境内は基本、人が多いです。
さて、弥勒八幡山とはなんとも神仏習合した名前ですね。
弥勒菩薩と八幡宮を思わせます。
大分の宇佐八幡宮の神宮寺が弥勒寺。
八幡宮-秦氏-和気氏-空海と関連がありそうです。
それで1冊本を書いてる人は山ほどいるので
そういうことかもしれません。

DSC_6374.jpg

東寺は好きな寺院のひとつなので結構何度か行っています。
今回で3?4回目くらい…
駅から近いというのも参拝しやすいポイントのひとつ。
東寺といったらやはり立体曼荼羅の迫力ですね。
あれは一日見ていても飽きません。

東寺のご朱印は種類が多く、また書き手の方が皆達筆なので
行くたびにどの仏様をお願いしようか悩むのですが、
自分の干支が酉で不動明王なので
結局不動明王をお願いしてしまいます。
昔は神社のみしかご朱印を集めていなかった時期があるのですが
東寺のみ、その頃にも不動明王を書いて頂いたという
寺院のご朱印第一号としても思い出深いです。

さて、この日は駅前のビジネスホテルで一泊。
走行距離は草津から京都まで53キロ。
ほとんどお参りをしていたので距離は少ないですね。
ホテルには大浴場が無いので京都タワーの下の銭湯で足を伸ばしてマッサージ。

そして居酒屋探訪。
1軒目は蔵倉さん。
昔ながらの居酒屋という雰囲気。
だいぶ鍛えたのでそういうところにも一人で入れますが
やっぱり初めての店は緊張しますねw
とりあえずビールで乾杯。
旬のしらさえびと鯵の刺身を頂く。
混んでみたので2軒目へ梯子。
近所の凸鉾さん。
こちらも駅から近い店なので2度目の訪問。
大きめでおしゃれな雰囲気の店舗で活気のある若い従業員さん。
接客は丁寧でカウンター越しに手が空くと話し相手もしてくれます。
ここは京都の地酒も揃っているので3種類ほど頂く。
何を飲んだか忘れちゃった。。
京都まで東京から自転車で来た(誇張
というと、店員さんから焼きホタテのサービスが!
サービスを受けやすい気質である。
〆はいつも通り第一旭。
いつも通り10分くらい並ぶ。
〆にはちょうどいい醤油。

22時頃就寝。
もう京都までという目標は達成したので
明日は一日ゆっくり京都を観光しましょう。
[ 2013年10月13日 18:15 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】近江神宮

園城寺から北へ1キロくらいで近江神宮。
雲も少し晴れてきた。

13:24 近江神宮到着

H25043003近江神宮

■近江神宮
創建:1940年
祭神:天智天皇

皇紀2600年を記念して天智天皇を祭神に創建された神社。
667年に天智天皇が当地に近江大津宮を営んだことに由来します。
天智天皇の和風諡号は天命開別尊。
漢風諡号である「天智」は奈良時代に淡海三船によって撰進され、
「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたと言われる。
ちなみに「天武」は「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」からという説があるけど
大友皇子の曽孫である淡海三船が自分の先祖である天智天皇のことを
悪王をなぞらえて名づけるだろうか。
とはいえ、大友皇子と天武の娘十市皇女の子が祖父葛野王なのだから
どっちの子孫でもある。
淡海三船が活躍した時代はまだ天武系の天皇の御世だったからかなぁ。

明治に出来た神社といえば
橿原神宮(1890年)神武天皇
吉野神宮(1892年)後醍醐天皇
平安神宮(1895年)桓武天皇
(明治神宮(1920年)明治天皇)
近江神宮(1940年)天智天皇
くらいかなー
建武中興十五社みたいなのもあるけど。
大化の改新の影響だろうか。。
近江神宮建設には滋賀県民も尽力したというし
天智天皇はやはり滋賀県民からは愛されていたのかな。

ところで面白い話、
戦前、明治30年代から壬申の乱という事件を教育の場から隠蔽されたそうな。
天武天皇(大海人皇子)が武力で大友皇子から皇位を簒奪したという歴史的事実を
隠蔽したかったからとか。
明治になり近代化をし、富国強兵を突き進み
日清戦争で大勝し、これから日露戦争に突入、といった時代に
愛国心に水を差しかねないし。
とはいえ、都合よく歴史を隠蔽して国粋主義に傾倒していった
当時の研究者が多くいたわけで、
あまり近隣諸国の歴史捏造を笑えないなぁ、この頃は。
逆にいえば国家形成で国民をまとめるには
ある程度の愚民化政策はどこの国でもやってるわけだなぁ。

そんなわけで近江神宮が創建されたころは
壬申の乱を知らない国民が多くいた時代だったようです。
記紀が神聖かつ正当な歴史書として尊い時代には
独裁し悪政を強いた蘇我氏を打ち倒し政権を天皇の元へ奪還した天智天皇は
さながら英雄だよね。

DSC_6279.jpg

そういう小難しいことはさておいて、参拝です。
天智天皇が百人一首の一首目であることから
競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が行われ、
そんなわけで「ちはやふる」の舞台でも出てくる神社なので
入り口にはでかでかとポスターが貼ってありますw

さて、ご朱印を頂いたので京都を目指そう。
東海道自転車旅もそろそろ佳境です。




[ 2013年10月13日 01:39 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】園城寺金堂

さて、国宝の金堂へお参りします。
ちなみに観音堂、釈迦堂、唐院 、護法善神堂 でも
ご朱印がいただけるようです。
ポリシーというほどでもないのですが
1つの寺院で複数のご朱印が頂けるお堂がある場合は
「あー…この先、ここに来ることはもうないかもしれない」というくらい
遠い場所でない限りは半分くらいを頂くようにしています。
最初に全部頂いてしまうと次にお参りする機会が遠のきそうなので…
あと、破産するのでorz

なので、園城寺もまた機会があればお参りに行こう。

H25043005三井寺本堂

■長等山園城寺 金堂
創建:7世紀
宗派:天台寺門宗
本尊:弥勒菩薩

国宝金堂には天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊としています。
弥勒菩薩像は秘仏なので拝観する事は出来ません。
弥勒菩薩像は三国伝来の霊仏といわれ、
中国天台宗の高祖慧思禅師から百済に渡り、
用明天皇の時に日本に渡来し、 天智天皇が弥勒菩薩像を崇拝されたと伝わります。
この辺りの件は善光寺の由来に似ていますね。
仏像は百済から日本に伝わるケースが多く感じるなぁ。

日本が「倭国大乱」といわれるように西日本では小国が小競り合いを繰り返していたこと同様、
朝鮮半島も半島南東部には辰韓十二国があり小競り合いを繰り返し、
その小国同士が各々交易し、また高句麗や中国とも関係を築いていただろうことを考えると
なかなか古代の外交事情は調べても難しい。
好太王碑によれば新羅の支配権をめぐって、
倭国と高句麗が戦争をしていることが解るけれど、教科書ではあまり載らない。
戦争に勝利し百済・加羅・新羅を破り、倭国の臣民にしたという。
その結果、百済は日本へ定期的に王族を人質によこすようになり、
半島の中で孤立した新羅は唐へ救援を求めたが、
新羅王を唐の皇族にするように求められたことで
新羅内で新唐派と反唐派による内乱が勃発し、
新唐派が勝利したことで新羅は唐と柵封体制に入りました。
日本では中大兄皇子、中臣鎌子によるクーデター(乙巳の変)が起きて
皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位し、新政権の下で大化の改新が実施されました。
ここで乙巳の変での最大の功労者である皇極天皇の子である中大兄皇子が即位せず、
弟の孝徳天皇を即位させたのか、不思議です。
孝徳天皇の時代には遣唐使や朝鮮半島との交流も行われました。
難波長柄豊碕宮を造営し、そこを都にしましたが、
653年、中大兄皇子は部下を連れ天皇を置いて飛鳥に帰ってしまい、
天皇は翌年病気にて崩御されます。
名前に「徳」がついているので「怨霊」になることを畏れたのかな。
はたして病死なのか、何者かによる暗殺の匂いもしますね。。
655年には孝徳天皇が重祚し、斉明天皇となります。
そしてついに朝鮮半島情勢が動きます。
660年に百済は唐・新羅連合軍の侵攻を受け滅亡してしまいます。
鬼室福信が百済復興のためへの救援依頼が来ます。
人質として日本へ来ていた百済の皇子、扶余豊璋の帰国を帰国させます。
と、ここで661年に斉明天皇が崩御します。
そして満を持して、中大兄皇子が即位し天智天皇となります。
662年には百済への全面的支援を発表し、
663年8月、倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争が勃発、
白村江の戦いで倭国は大敗します…
戦犯ともいえる天智天皇は唐との国交正常化を図りつつ、
668年には高句麗が唐へ滅ぼされたことによって
日本への侵略を恐れ、大宰府に防人を配備し、国内に山城を築き、
都を内地で百済系移民の多く住む近江へ遷都します。
671年には病気が悪化し12月に病死したとも、
山中で行方不明になったとも言われています。
天智天皇の死後、皇位を巡って天智の子、大友皇子(弘文天皇)と
弟の大海人皇子が対立し、
672年に壬申の乱が勃発、大海人皇子が勝利し天武天皇として即位します。

と、一連の流れを軽くメモったところで、
天智天皇がなぜ百済に執着したのかは謎です。
天智天皇の血縁に百済系がいるようには辿れない。
しいていうならば、当時すでに倭国の支配地であった百済を
唐に則られることは倭国経済に大打撃であり、
さらに百済という唐との緩衝地帯を失うことは
今度の国防政策上、常に日本海を挟んで大国唐と向き合いことになり
侵略の脅威に晒されることになるので
どんなことがあっても日本にとっての傀儡国家であった百済を
残しておく必要があったのではないか、と考える。
中国-朝鮮半島-日本の関係は常に中国の脅威にどう対抗できるか、になる。
ところで白村江の戦いで大打撃を受けた日本が
壬申の乱をすることは非常に危険な行為だよなぁ。
すでに対外戦争で疲弊した倭国で内乱を起こせば
どんな結果になろうとも唐にとっては侵略しやすい状態になる。
仮に天智勢力が反唐派で天武勢力が親唐派だった場合、
壬申の乱は唐が日本侵略をするための足がかりであったのではないか、とすら思えてくるなぁ。
応仁の乱から始まる戦国時代に日本に
イエズス会のポルトガル人宣教師ザビエルがキリスト教の布教したり
中国船に乗ったポルトガル人が火縄銃を持ち込んだことは
文化侵略や武器を輸入することで内乱を悪化させ疲弊させたところを
どちらかが攻め込んで日本を侵略するつもりだったのだと考える。
当時、世界はポルトガルとスペインによる世界分割、デマルカシオンという、
教皇によって2つの大国による支配を許可されていたわけで、
日本もヨーロッパによる侵略の危機があったわけです。
信長が天下統一を目指したのは、それをキリスト教宣教師によって
聞いて知っていたからなんじゃないかと、まぁ想像ですが。
幕末の一連の動乱もイギリスとフランスの代理戦争ですし、
楽して他国を支配するためには
その国同士で二分するような内乱をさせておけばいいのです。
壬申の乱はそういう一面があったと考えると面白い。
なので政権の移り変わった倭国のこの時代、
蘇我氏-天智天皇-天武天皇-藤原氏と
その背後で誰がサポートしたのかを調べるのも新しい発見があるかも。
天智は実はだれそれの子で、とか
扶余豊璋が藤原鎌足だ、とか
天武が実はだれそれの子で、という考察も好きだけど。

園城寺は通称「三井寺」といい、
この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから
「御井」の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという、とのこと。
その井戸は金堂西側の閼伽井屋にあり、霊泉は今も水が湧いています。
「閼伽」は仏教用語で水のこと。
寺院建立以前はこの泉そのものが信仰の対象だったのかな。

園城寺といえば僧・頼豪も有名ですね。
園城寺の戒壇創設を天皇に請願したが、延暦寺の反対により実現せず、
怨念を抱いて断食して命を絶ちました。
その後、延暦寺の経典を食い破る鼠となって現れ、
妖怪鉄鼠となりました。
この時のねずみの霊を祀っているのが十八明神社、
別名「ねずみの宮」といい、
北の比叡山の方向を向いて建っているとも伝えられています。

DSC_6223.jpg

さて、金堂をお参り。
国宝といわれるとちょっと気持ちが厳かになる小心者。
金堂横の寺務所、お土産も売っている、でご朱印のお願い。
紙が書きやすいと喜ばれたw
別に自分が漉いたわけではないけど
ちょっと自慢げになる瞬間である。

園城寺をだらだら考察しすぎた…
空前の古代史ブームなので仕方ない。
[ 2013年10月12日 23:45 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】園城寺別所微妙寺

園城寺で拝観料を500円払って境内へ。
水観寺を拝観する前に払ったかが記憶にない…
水観寺をお参りしてさらに奥へ。
雨上がりなので階段がしめっていて歩きにくい。

ちょっと歩くと微妙寺へ。
まぁ園城寺の一堂宇ですね。

H25043004三井寺微妙寺

■長等山園城寺 別所微妙寺
創建:994年
宗派:天台寺門宗
本尊:十一面観音立像

慶祚大阿闍梨によって開基された寺院。
慶祚は園城寺の余慶について天台教学を学び、
993年、比叡山から円珍の門徒が追放された際、園城寺に移ったが、
慶祚の学徳を慕って多くの学徒が集まり園城寺における天台教学興隆の基となった。
慶祚の出自は中原氏。
安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われ、
明法道、明経道を司る家系。つまり学者の家系。

さて、園城寺は先にも述べたとおり、隣接する比叡山延暦寺と
長い間対立関係にありました。
山門派(延暦寺)-円仁(慈覚)-良源
寺門派(園城寺)-円珍(智証)-余慶-慶祚-明尊
円珍は和気氏、余慶は宇佐氏と新羅系秦氏の系譜、
円仁は毛野氏の一族壬生の出自、百済系渡来人の系譜なので
比叡山内での旧百済派と新羅派の代理抗争で
百済派が新羅派を追い出したのかとも思うけど、どうなんだろうか。

さて、園城寺の歴史をそろそろ考える。
古くは長等山をご神山とし三尾明神を崇拝する古代の山岳信仰があり、
7世紀に大友氏の氏寺として草創されました。
大友氏は近江に住んでいた豪族で
大陸からの渡来系だが百済人の後裔とも称されました。
大友村主は天智天皇が近江京へ遷都した際に
大友皇子の主たる支持勢力を成したと推察されています。
親百済系の天智天皇は唐・新羅連合軍と
亡国百済の復興をすべく白村江の戦いを挑むが惨敗し、
百済系移民の多くいる近江の地へ遷都します。
天智天皇が崩御すると子の大友皇子(弘文天皇)があとを継ぎ、
天智の弟・天武天皇が反旗を翻して壬申の乱が置きるわけです。
天智天皇の念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺院を近江の地に作るつもりが
志半ばで崩御し、大友皇子も壬申の乱で命を落とします。
大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、
天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した寺院が園城寺です。
開祖は天智の孫の与多王となります。
与多王は大友姓を受けて大友氏の祖となったとも言われますが、
与多王は伝説的な人物のため、与多王と大友氏の祖に時代のずれがあるようです。
ただし、大友氏が与多王、ないし大友皇子の子孫と関連があったことは伺えます。

さて、そんな百済移民の建立した園城寺に
新羅明神を祭る新羅系秦氏の後裔の円珍が入山して再興するわけです。
古くより山を信仰する民の聖地を百済系移民が乗っ取り、
さらに新羅の末裔が天台宗の寺門派を作るという流れ。
まぁ妄想ですけどね。
百済系天皇の桓武の後裔の平氏が団結したことに対し、
園城寺は源義光を支持し、園城寺で元服したことから
新羅三郎と呼ばれたように、新羅系は源氏をサポートします。
日本の政変には新羅と百済が見え隠れするとは戦前からいわれていたようですけども。
あくまで歴史の一シーンの影響を与えた可能性を視野に入れているだけで
日本を動かしたのは朝鮮半島ニダ!とはまるで思ってませんがw

DSC_6184.jpg

ちなみに園城寺の代表する僧を「長吏」と呼び、
他の寺院の別当・座主よりも一段格上である、という意識があったようです。
園城寺はまだ続きます。
[ 2013年10月09日 23:37 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】園城寺別所水観寺

三尾神社をお参りして、すぐに園城寺内。
三尾神社を含む長等山に在する坊や堂を含めて園城寺なので
高野山や比叡山のように、山が一つの信仰の対象だったのかな。

H25043003三井寺水観寺

■長等山園城寺 別所水観寺
創建:1040年
宗派:天台寺門宗
本尊:薬師如来

明尊大僧正によって創建された園城寺の五別所寺院のひとつ。
父は兵庫頭・小野奉時で、三蹟・小野道風は祖父にあたります。
その祖父は小野篁。
小野氏の祖は天足彦国押人命で孝昭天皇の第 1皇子。
天足彦国押人命は滋賀県大津市小野の小野神社に祭られています。
園城寺近くに小野氏所縁の地があるので
地理的には縁遠からずという感じもする。
天足彦国押人命-和珥氏-春日氏-小野氏という支族の流れ。
和珥氏と百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる王仁は
無関係なのだろうか。
天智天皇が近江京へ遷都した際に多くの百済系移民や帰化人を引き連れていたというし、
小野氏の出自と百済に関係はあるかもしれない。
余り根拠はないけどw

DSC_6163.jpg

園城寺は思ったよりも広いみたい。
とりあえず三尾神社から一番近い水観寺から入ってしまったけど
やはり大門から入るべきだったかな…
天候不良と平日も相俟って観光客は少なめ。
大きな寺社は参拝客が多いので良かった。
まぁ平日に有給を入れて自転車で走り回ってるのも
いいご身分であるが。。

さて、園城寺には役小角を祭る神変大菩薩がある。
三井寺と修験道が平安時代以降は強く結びついていたようです。
また、新羅善神堂という新羅明神坐像を祭るお堂もあり、
像は国宝で秘仏になっています。
円珍が唐からの帰途、 老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、
教法加護を約したといわれ、新羅明神を祭るようになりました。
智証大師円珍の母は空海の姪御であり、名門佐伯氏娘で、
嫁いだ先は和気氏であるので空海とも縁がある。
和気氏は備前国和気郡(岡山県)を本拠とした豪族で、
垂仁天皇の皇子鐸石別命を祖とする。
和気氏の始祖は新羅系移民の秦氏であるといわれ、
和気氏の円珍の渡航を同族の秦氏がサポートし、
守護神である新羅明神祭ったと考える。
新羅-秦氏-和気氏-円珍
古代の日本には多くの朝鮮半島からの移民棄民が渡来しており、
彼らが先進技術を持って大和朝廷をサポートし影響力があったわけで
百済系移民と新羅系移民が大和朝廷内で派閥抗争をしていた部分もある。
そこを追いながら古代史を考察するのもまた愉しい。
園城寺はそういう意味でも奥が深いので続きます。
[ 2013年10月08日 23:36 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】三尾神社

義仲寺から2キロ程度走ると園城寺。
延暦寺には行った事があるけど
園城寺はまだお参りしたことがない。
園城寺に入る前に隣接した三尾神社のお参りをすることに。

12:17 三尾神社到着

H25043002三尾神社

■三尾神社
創建:不明
祭神:伊弉諾尊

三尾神社創建については園城寺の「寺門伝記」に書かれていて
伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神となったことが始まり。
この神は常に三つの腰帯をつけていて、
ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となって出現し、
最初に姿を現した赤尾神が卯年の卯月卯日卯の刻であったため
ウサギに所縁のある神社になっているようです。
境内には兎の狛犬(兎)や彫刻が多く見られます。
浦和の調神社や京都の岡崎神社のほかにも兎で有名な神社があるとは。
知りませんでした。
さて、この3人の神を称して三尾明神、
園城寺がこの地に出来る以前より祭られていた地主神ということだろうか。
社殿に関しては、859年(卯の年)
圓城寺の開祖である智証大師円珍が琴緒谷に復興。
円珍は讃岐国金倉郷に814年に誕生、多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとりで
空海の甥(もしくは姪の息子)にあたる。
天台宗山門派の延暦寺と寺門派の園城寺が対立していた遠縁には
円珍の出自からの支持母体の違いというのがあったのかもしれないなぁ。
三尾神社は長く園城寺の守護神として同山内で祭られ、
明治の神仏分離で園城寺から独立し、今に至るわけです。
三尾明神の本地仏は普賢菩薩。
現在も園城寺境内に普賢菩薩を祭る普賢堂がある。

DSC_6124.jpg

お参りしてご朱印をお願い。
境内の兎像を愛でる。
先日の台風18号で京都滋賀は深刻な水害に見舞われて、
そのときのニュースで三尾神社が一瞬映り
境内が大雨で浸水したような雰囲気だったけど
今現状復興に大変だろうなぁ…
[ 2013年10月06日 11:18 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】義仲寺

建部大社を出て琵琶湖沿いを走る。
雨も止んで走りやすくなってきました。
琵琶湖沿いはサイクリング用にも整備されているので
今度琵琶湖一周をしてみたい。
ここら辺で1本道入ったあたりが義仲寺かな?と思ったら当たり。

11:49 義仲寺到着

H25043002義仲寺

■朝日山義仲寺
創建:不明
宗派:天台宗
本尊:聖観音菩薩

源義仲の死後、巴御前が墓所近くに草庵を結び、
日々供養したことにはじまるとのこと。
鎌倉時代後期にはすでにあったそうです。
松尾芭蕉も愛し、死後、この寺に葬られました。

DSC_6089.jpg

境内は市街地の寺院なのでこじんまりとしているけど
お庭の手入れがしっかり行き届いたいいお寺。
寺というより庵っていう感じ。
時間はあるのでゆっくり境内散策。
路面が乾くのをまっていた、とも言う。
寺務所でご朱印をお願いすると
自分の見た目から自転車で来たと解ったよう。
聞くと趣味で自転車に乗って琵琶湖をよく走っているのだとか。
東京から東海道を走っている(誇張)というと
話が弾みました。

このまま1号を走れば京都入りできますが
折角大津まできたので雄琴…ではなく
三井寺のほうまで足を伸ばします。
[ 2013年10月05日 11:26 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】建部大社

石山寺を出て少し走ると立派な湖岸道路が見える。
ここに来るまではノーチェックだったけど神社の矢印を見ると行きたくなる性分。
この先10キロとかなら諦めるけど
1キロもなさそうだし、一宮なのでお参りに。

11:07 建部大社到着

H25043001建部大社

■建部大社
創建:(伝)景行天皇46年
祭神:日本武尊

日本武尊の死後の景行天皇46年、
日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅により、御子・建部稲依別命とともに住んでいた
神崎郡建部郷千草嶽(現 東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に
日本武尊を建部大神として祀ったのが創建、とのこと。
今でも東近江市五個荘伊野部町には建部神社があるので
そこが最初の神社が出来た地のようだ。
山頂には聖徳太子ゆかりの瓦屋寺がある。
箕作山は古くから信仰のある山だったのかな。
675年に近江の守護神として、現在地へ遷座されました。
箕作山の建部神社には、768年に聖真大明神と建部大明神が設けられました。
「聖真大明神」が何者なのか、ぐぐっても出てこないな…
近江志賀郡に現れた八幡大菩薩を「聖真子」といい、
阿弥陀如来を本地仏とする仏とのこと。
まぁ、関連性があるのかわかりませんが。

その後、近江国一宮として崇敬され、
源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、
本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、
出世開運の神としても著名となりました。

祭神の日本武尊は日本全国に説話を残し、
多くの神社に祭られている神様なので有名ですね。

DSC_6074.jpg

到着したら少し雨が治まってきた。
さすが一宮だけあって立派な神社です。
本殿ではお宮参りの祝詞を上げてました。
[ 2013年10月04日 00:12 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/4/30】石山寺

さて、東海道自転車旅も4日目になり、この日のうちに京都入りできそうです。
で、天気予報はその通り雨、朝7時頃は本降りじゃなかったので
こりゃあこのまま待っていれば止むかも!と
2時間くらい部屋でだらだらしていたら土砂降りに…orz

一応登山用の雨具は上半身だけ持ってきていたし
下半身はジョギング用のタイツに速乾性の高いハーパンを穿いているので
荷台の荷物をビニールで包んで覚悟を決める。
40キロくらいだしなんとかなる!
と、安全運転を誓い9時にチェックアウト。

目指すは石山寺。
草津を出て1号を走っていけば10キロもないので安全運転で行っても
30分くらいで着くであろうと思ったのですが
どこで道を間違ったかどこを走っているのか解らなくなる事態にw
グーグルマップの現在地の怪しいことよ…
なんとか石山寺の看板を見つけて方向修正。
なんで左手側に滋賀大学があったのか…

10:12 石山寺到着

結局1時間以上かかってしまった。

H25043001石山寺

■石光山石山寺
創建:747年
宗派:東寺真言宗
本尊:如意輪観音

琵琶湖へ望む伽藍山の中腹にそびえる古刹。
珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、
名前の由来にもなっています。
独特な岩山によって古くから山岳信仰があったのではないかなぁ。
近くには石山温泉もあるが歴史は昭和になってから。
開基は僧・良弁で
聖武天皇の発願により、
747年、良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている、とのこと。
詳細はwikiにあるとおり。
修験道とも深い関わりがあるよう。
良弁の夢のお告げに現れた白髭明神は琵琶湖対岸、北北東にある
高島神社に祭られている神様。
その先には気比神宮。
南に線を引くと東大寺(若草山)とさらに天香具山。
地図を見ているとついレイライン的発想に目が行ってしまう。
平安時代になると距離的にも近い醍醐寺との関係が深くなり
密教化が進みました。

DSC_6021.jpg

朝から何も食べずに走ってきたので拝観前に腹ごしらえ…
と思ったけど全身ずぶ濡れで開店したてのお店を濡らしてしまうのも忍びないので
そのまま拝観。
雨具のフードをがっぷり被って境内をうろうろ。
怪しい人にしか見えない…orz
先にも述べたとおり、岩山の中腹に建立されているので
結構階段も多い。
まだそんなに走っていないというのもあるけど全然足が重くないのは
おそらく前日に食べた揚げにんにくのおかげかな。。
本堂でご朱印を頂いてしばし雨宿り。
裏手の森の緑が雨に濡れて美しい。
多宝塔のあるほうへ行くと瀬田川が一望できる。

参拝をしていたら少し雨が弱まってきた。
これはチャンスと琵琶湖へ向かいます。

ところで石山寺のご朱印の「寺」の字が
東寺で頂けるご朱印の「寺」の書き方と似ているのは
宗派が同じだからかな。
たまたま似ているだけなのかな…
[ 2013年10月01日 22:06 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/4/29】小汐井神社

吉御子神社を後にして本日の宿のある草津駅を目指す。
1号に合流するとさすがに交通量が多く、ちょっと風が出てきた。
明日雨だったしなぁ…

16:11 草津市入り
温泉のないほうの草津です(違
草津宿では小汐井神社と立木神社をチェックしてあるけど
どちらも駅周辺。
17時になると閉まってしまう寺社は多いのでちょっと急ぎます。

16:18 小汐井神社到着

H25042905小汐井神社

■小汐井神社
創建:863年
祭神:田心姫命

村の産土神として建立され、
草津宿は東海道と中山道、京都からの分岐点ということもあり
往来する旅人に厚い信仰を受けた神社。
古くは女体大権現社と称されていましたが、
明治11年に現在の社号に改称されました。
境内にある池は小汐井(潮斎)池と呼び、
「潮斎」は祭祀の際に海中でお清めすることをいい、
古くはこの池が清めの池だったのかもしれない。
神聖な泉であるということもあり
祭神は宗像三女神の一柱である田心姫命を奉じたのかな。
宗像三女神は田心姫、湍津姫、市杵嶋姫と
三女神をセットで宗像の神として祭ることが多いのだけど
小汐井神社にいたっては一柱のみ。

興味深い話で、小汐井神社の池で無礼な行いをすると
必ず祟りがあるという。

DSC_5906.jpg

境内はただいま本殿の造営工事中で
小さな拝殿が用意されているだけで
残念なことに小汐井池も拝めませんでした。

お参りしてご朱印を頂く。

草津本陣を眺めて立木神社へ。

■立木神社
創建:767年
祭神:武甕槌命
祭神は武甕槌命なので鹿島神宮と縁のある神社。
境内には鹿の石造があります。
ご朱印は頂けなかったので触りだけ。

17時にホテルにチェックイン。
走行距離は途中でリセットボタンを押してしまったので不正確だけど
多分85キロくらい。
さすがに三日目+鈴鹿峠を越えると疲れます。。
大浴場は無いけど近くに銭湯があるというので
銭湯にゆっくり浸かって足をしっかりマッサージ。

滋賀といったら近江牛!と思っていたのですが
やはりちょっとお値段が…
結局「ほがらか亭」さんで駆けつけ一杯。
ドテ煮と鰹のタタキを頂く。
鰹はオススメの品らしく、鮮度がよく
炙った際に軽く塩を振っていて醤油やポン酢は不要らしい。
言われるがままにそのまま頂き、実に美味しい。
お客さんが増えてきたので2軒目へ。
2軒目で食べた揚げニンニクが翌日にあれほど効果を出すとは…

明日は雨の予定だし、草津から京都は40キロもないので
朝はゆっくりしよう。。



[ 2013年10月01日 13:11 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/4/29】吉御子神社

吉姫神社を後にして吉御子神社へ。
1キロほどしか離れていないので自転車ですぐです。

15:16 吉御子神社到着

H25042904吉御子神社

■吉御子神社
創建:伝・崇神天皇時代
祭神:吉彦命・鹿葦津姫命・吉姫命

先の吉姫神社と対になる吉御子神社。
こちらは社伝があるので由来もちゃんとはっきりしている。
崇神天皇六十八年に石部山に神降があり、
垂仁天皇二年に宇加之彦の子、吉比古・吉比咩の神を
谷黒の御前に祀ったのが創祀とされる、とのこと。
「宇加之彦」の経歴がぐぐっても出てこないなぁ。
宇迦之御魂神と関連性があるのかないのか。
宇迦之御魂神といえば伊勢神宮外宮の祭神の豊受大神と同一視されているし
伊勢への街道でもあるし、伊勢と古くから関わりがあった可能性は高い…
「宇加之彦」について追求している地元の郷土資料はないものかな。
石部山は吉御子神社の南西、裏手にある小高い丘のことだろうか。
今で言う雨山・丸山地区周辺かな。
調べると古くは金が掘れ、江戸時代には銅山があったというので
霊山として信仰があっても不思議じゃないな。
後には石部山を神体山とする山岳信仰も盛んになったとあるし
吉御子・吉姫神社の信仰が篤かった事もわかる。
811年、災害により石部の町の東西に分社され、
西側に鎮座したと伝わるのが吉御子神社です。
東側が吉姫神社になります。
祭神は吉彦命で吉姫神社の吉比女大神と男神女神の関係でもある。
となると先の吉姫神社は9世紀にはあったということかな。

DSC_5891.jpg

こちらも5月1日が例祭なのだけれど、吉姫神社のように
祭りの準備をしているようではなかったなぁ。
参拝者は自分ひとりしかいなかったので
落ち着いて色々見られました。
と、改めて考えるとあまり混んでいる時期に寺社へお参りしないので
大概絵馬までしっかり見れます。

ご朱印を頂いて宿のある草津駅方面までラストラン。
[ 2013年10月01日 11:54 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)