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【25/06/22】谷保天満宮

折角西東京方面に来たので
前からお参りしたかった谷保天満宮へ向かいます。
新撰組云々言ってたんだから高幡不動行けよという気もしますが
高幡不動は以前お参りをしたので。
土方所縁の石田寺も同様。
日野八坂神社から30分ほど東へ、多摩川を越えて国立市へ。

11:42 谷保天満宮到着

H25062202谷保天満宮

■谷保天満宮
創建:903年
祭神:菅原道真

903年に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建立したことが始まり。
菅原道真が筑紫太宰府に左遷された際に、
三男・道武は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられたため、
この地に廟を建てたようです。
947年、京都北野天満宮造営に際して、谷保天満宮の威霊を奏上され
村上天皇の勅によって神殿が造営され官社に列せられ、
1181年、現在の地に鎮座しました。

東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社、湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。
ちなみに日本三大天神は太宰府天満宮、北野天満宮、荏柄天神社と言われています。
「野暮天」の語源もこの「谷保天満宮」から来ているそうです。
「谷保」の地名が今は「ヤホ」ですが、古くは「ヤボ」と読みました。

谷保天満宮の別当だった安楽寺はすでに廃寺になっていますが
東京都道256号を挟んで反対側にある滝ノ院の辺りにあったのかな。

DSC_8376.jpg

鳥居をくぐって階段を下っていくと本殿にたどり着きます。
鎮守の杜といった雰囲気で瑞々しい境内です。
天神様といえば牛、撫で牛を撫でるのが天満宮でのマナーです。
天神様においてある牛は結構リアルなものが多いのですが
ここのは結構素朴な顔でした。
拝殿でお参りして社務所へ。
谷保天満宮のご朱印帳は可愛らしくて有名なので
前から欲しかったのです。
こうしてご朱印帳がどんどん貯まっていってしまいます。
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[ 2014年01月29日 19:07 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/22】日野八坂神社

宝泉寺のすぐ近くの日野八坂神社も新撰組所縁の神社なので
お参りしましょう。

H25062201日野八坂神社

■日野八坂神社
創建:不詳
祭神:素盞嗚尊

日野八坂神社の創建年代は不詳ですが、
多摩川より発見した牛頭天王像を奉遷し、社殿を建立したと伝えられています。
1398年に土淵山観音院普門寺が創建され別当寺となったといいます。
土淵山観音院普門寺は真言宗智山派で高幡山明王院金剛寺の末寺に属していた寺院。
牛頭天王社(八坂神社)だから天台宗かと思ったけど真言宗なんですね。

前にも考察しましたが、また発見「川で本尊拾った」説話。
川でも湖でも海でもいいのですが、
「本尊は古いものだが由来は解りません」ということですが
「解らない」のか「あえて濁している」のかが非常に気になります。
善光寺や浅草寺といった日本を代表する古い仏教寺院の本尊が
「海で拾ったものを飾っています」というのは非常に違和感があります。
「聖徳太子が彫りました」というのも信憑性を考えると非常に怪しいですが、
それでも「権威付け」という理由としては充分ですが、
「海で拾った」では権威付けにもなりません。
善光寺の本尊の阿弥陀三尊は
552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、
疫病流行のために物部氏によって難波の堀江に捨てられたもので
600年、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗ったといわれ、
本田善光が信濃国水内郡芋井郷に移座し、如来堂を建立して祀ったと伝わっています。
本田善光は秦河勝とも百済王善光とも言われ、
そうだとすると百済系渡来人だった可能性が高いです。
百済王善光は7世紀に亡命した百済の王族のひとりで、
百済最後の王である義慈王の子です。
倭国と同盟関係にあった百済は義慈王の子の豊璋王と禅広王(善光王)を人質として献上し、
禅広王は持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、
百済王氏の始祖になったといわれています。
百済王氏の祖霊を祭っている百済王神社が大阪府枚方市にありますが、
百済国王と進雄命(スサノオ)が祭られています。
江戸時代までは牛頭天王を祭っていたとされています。

同様の浅草寺の縁起では
628年、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像が浅草寺本尊の聖観音像で
この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養したことが始まりとしています。
土師氏は百済系渡来人と言われているので
東京湾から隅田川周辺に住み着いた百済系渡来人が奉じたのではないかと推測できます。

さて、東国には古くより渡来人が移り住んだ記録がありますが
日野市を含む多摩丘陵も百済王(高麗王とも)の一族が移り住んだといわれています。

こう見ると、百済と縁がある仏像はなぜか海(川)から発見されたという
共通点が出てきます。
他の事例もこれから調べて行こうとは思いますが。
百済王神社と八坂神社がどちらも牛頭天王を祭ることも
牛頭天王=祇園社の分布と百済系渡来人に関係が有るのかな。
この辺に付いて考察している面白そうな本がないか探してみよう。

日野八坂神社から話が逸れましたが
書いておかないと忘れちゃう。

さて、日野宿の人たちに「天王さま」と呼んで親しんできた牛頭天王社も
明治の神仏分離で別当であった普門寺から切り離されることになりました。

1858年に「武芸上達」を祈願する天然理心流の額が奉納され、
門人の筆頭には井上松五郎、続いて佐藤彦五郎、中程には井上源三郎、
末尾には沖田惣次郎(総司)、嶋崎(近藤)勇の名が並んでいます。
土方歳三が門人になるのは翌1859年のことなので
名前は入っておりません。

DSC_8346.jpg

さて、八坂神社をお参り。
社殿は木造じゃないのでちょっと味気なく感じます。
天然理心流奉納額は通常は非公開で祭礼時のみ公開されるそうです。
なので、無論拝めませんでした。
残念。
[ 2014年01月29日 01:27 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/22】宝泉寺

C84の新刊を新撰組関連のご朱印紹介と決めたので
まずは新撰組といえば日野!
八王子方面までは甲州街道をただただ40キロくらい走っていれば着くので
久々の日帰りサイクリングです。

何時に出発したのかは忘れましたが多分前の日は飲んでいたので
8時頃出発したはず…
ただただ甲州街道をがむしゃらに走ると日野市に入ります。
最初の目的地は宝泉寺ですが
途中で日野宿本陣発見。
日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物で
幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として
1864年12月から使用されました。
佐藤彦五郎は下佐藤家当主で、日野宿組合名主、
石田村の土方歳三の姉・とくと結婚した人物で
新選組の後援者でもありました。
1849年2月10日、日野宿を焼く大火にみまわれて武芸の必要性を感じ、
1850年に天然理心流3代目宗家・近藤周助の門人となり、
自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の道場を設け、
その道場に近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れていました。

日野宿本陣を後にし、日野駅近くの宝泉寺へお参り。

10:53 宝泉寺到着

H25062201宝泉寺

■如意山宝泉寺
創建:1330年頃
宗派:臨済宗建長寺派
本尊:釈迦如来

開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、
創立は元徳年間(1330年頃)で、当初は日野市新町にありましたが、火災に遭い、
その後、現在の地に再建されたといわれています。
本堂は平成13年5月に新築落慶し、境内も整備し直されました。

宝泉寺は井上源三郎所縁の寺院でもあります。
井上源三郎は新選組の六番隊組長で
1829年、日野宿北原にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれました。
1847年頃、天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門、佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で
土方歳三らと共に稽古に励みました。
1862年2月、浪士組に近藤・土方らと参加して上洛、
1863年、芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任し、
1865年6月の組織再編成では六番隊組長に任じられました。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、新選組は淀まで退却、
そして1月5日、淀千両松で官軍と激突し、その最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死しました。享年40。

井上は劇中では初老の男性で描かれることが多いですね。
しかし新撰組全盛期でも30代後半、全体的に若い隊士が多かったので
彼らより年配だったがゆえにそのように描かれたんでしょうか。

井上の首は戦死した鳥羽伏見の戦場近く、
京都市伏見区西桝屋町の欣浄寺に埋葬されたという説が有力です。
宝泉寺に井上家の墓所があることから
井上源三郎の墓が建てられています。
また井上の顕彰碑も建てられています。
日野市日野本町4丁目には井上の子孫が井上源三郎資料館を開いています。
資料館は住宅の敷地内にあるため、
開館日は月に2日程度なので調べていかないと入れません。
この日は勿論入れませんでしたw

DSC_8336.jpg

まずは本堂へお参り。
まだ新築10年の為、非常に綺麗な建物です。
ご朱印をお願いして、井上の顕彰碑へ。
井上家の墓は一般墓地内にあるので行かないのが自分の中でのマナー。
観光地化されているわけではないし。
境内も手入れがしっかりしていて綺麗でした。

[ 2014年01月28日 22:26 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/08】日向薬師

さて、登頂したので下山します。
帰りは日向薬師へ依るために別ルートを通ります。

11:00 下山開始

下山のほうが気分は楽ですが、膝や足首に負担がかかりやすいので
慎重にゆっくり進みます。
日向薬師ルートには険しくはないけれど鎖場もあり、
ちょっと登山気分が味わえたした。
40分くらいで見晴台に到着。
見晴台でちょっと休憩。
見晴台からはルートは2つに分かれます。
一方が大山阿夫利神社下社へのルート、
もう一方が日向薬師ルート。
前者には途中に滝があるようで
登山客の9割がそっちのルートを使っていたようです。
日向薬師ルートで下るのは自分だけ。
急に寂しくなってきました。
この道で間違ってないよね…なんて気分になりますが
たまーに登山客とすれ違ってほっとしたり。
途中で蝉の幼虫が穴から出てきているところを見たり、
都会では見かけない蜻蛉や蝶を見てテンションが上がる。
オニヤンマなんて都心じゃ見られないもんなぁ。

12:30 下山

車道に降りてきて山道は終了。
目的地のキャンプ場に無事到着。
後は道なりに下っていくだけ。
途中で浄発願寺と石雲寺という寺院をお参り。
どちらも住職不在でご朱印は頂けず。
山の中の長閑な畑を通ると日向薬師の看板と
熊出没注意の看板が。
いや、熊とか出られても困りますし…
看板の案内通りに歩くとちょっと上り坂。
まぁ今日最後の上り坂だろうから頑張ろう…

13:22 日向薬師到着

H25060802日向薬師

■日向山霊山寺宝城坊
創建:716年
宗派:高野山真言宗
本尊:薬師三尊

どうやらさっきの看板は車での参拝客用の道案内だったようで
駐車場前に着いてしまいました。
参拝客用に農家がニューサマーオレンジを売りに来ていて
5個で100円だか200円だったか。
忘れましたが美味しそうだったので購入。
帰ってから頂きました。
日向夏ってやつですね。甘酸っぱくて美味しかったです。

というわけで日向夏を片手にお参り。

日向薬師は元の名を日向山霊山寺と称した薬師如来信仰の霊場で、
関東地方では有数の古寺です。
開祖は行基といわれています。
遡ること、668年、唐・新羅連合軍に敗れた高句麗の王族・高麗王一族が日本へ亡命し、
朝廷の支持で相模国大磯へ入植し、各地へ土着したといわれ、
大磯には高麗神社があります。
さて、巡錫してきた行基が日向山に薬師仏を彫ろうとしたところ
良い木がなかったため、若光は数尺の香木を与え協力したという伝説があります。
日向薬師山門前には白鬚神社があり、
そこの祭神は高麗王若光です。
高麗王一族はその後に武蔵国へ移り、
今の日高市にある高麗神社付近を拠点としたといわれます。
「白髭神社」というと「新羅明神」を祭ったり
はたまた「高麗王若光」を祭神にしたりと、どっちなんだい?という感じですが
東国へ住むように命じられた朝鮮半島からの渡来人、特に高句麗・新羅からの一族の奉じる神社を
総じて「白髭」という言葉を当てたんじゃないかと、想像します。
4,5世紀の中央集権国家への地盤を造っている時代では
大陸の先進技術や文化を持った渡来人は重要視されましたが、
畿内に大和朝廷が成立し、「隋書」の東夷伝では倭国がすでに
百済・新羅に大国として崇められている、という記述があるように、
7世紀になると日本は他の極東アジアの国々の中で自我を見出しており、
隋の煬帝に対して、立場が対等とも読み取れる国書を送ったほどです。
4,5世紀には文化の担い手として渡来人を重用し、畿内周辺に住まわせたことに対し、
7世紀には渡来人の王族を東国に追いやる始末です。
7世紀といえばまだ東国は蝦夷の地であり異国の地でした。
蝦夷の地を異国の渡来人に与えて「地ならし」をさせ、
そこに仏教僧を派遣して布教し、大和朝廷の勢力圏にしていったのではないかと想像します。
そんな異国の地に住まわされた渡来人の末裔が東国武士であり、
彼らの台頭で平安時代が終焉を迎えるわけですから、歴史はわからないものですね。

そんな行基が開祖といわれる日向薬師ですが、
奈良時代にさかのぼる寺院跡は発掘されておらず、実際の創建は10世紀頃と推定されているそうです。
今後の発掘調査で奈良時代の痕跡が見つかる可能性もあるので
期待ですね。
鎌倉時代にも信仰があり、源頼朝も政子の安産祈願のために
霊山寺で祈祷を上げさせたという記述があります。
近世の日向薬師には別当坊の宝城坊を含め13坊があり、
それ以外にすでに廃絶した坊もいくつかあったと記載されていることから
寺院としての規模の大きさが伺えます。

中世以降、大山には大山寺と霊山寺という2つの寺院が存在したわけですが
大山寺は修験、霊山寺は薬師信仰と
住み分けがされていたということでしょうか。

しかし霊山寺は明治の廃仏毀釈で多くの御坊御堂が失われ、
山門と村上天皇所縁の梵鐘、薬師堂のみを残すだけとなり、
霊山寺別当坊だった宝城坊が寺籍を継ぎ、今へと至ります。
今でも病気平癒、特に眼病に霊験ありとして信仰を集めています。
眼病というと製鉄を連想してしまいますね。
思えば大山は丹沢山系に連なる山なので
「丹沢」=水銀の取れる山だったのではないかと推測、
修験者が修行したのも頷けます。

DSC_8301.jpg

さて、裏手から入ってしまったので本堂へお参り。
本道は平成25年から改修工事に入ってしまい
自分が参拝したときにはすでに足場も組まれ、
幕で覆われてしまっていました、残念。
ご朱印をお願いすると書置き、こちらも残念。
寺務員のおばちゃんにバスの時刻表を見せてもらい、
まだ時間が有るな、と思っていると
まだ時間が有るから是非宝物殿にお参りをするようにと薦められる。
登山靴脱ぐの面倒だなぁと思いつつも
折角来たのだし、見ていこう。
拝観料は200円だか300円だったか…
中に入って吃驚。
平安時代から鎌倉時代に作られたといわれる
2m弱の仏像がずらり。
十二神将像も12体揃っていて状態もいい。
寺務員のおじさんいわく、ここまで状態がいいものが
12体揃っているのは関東では稀だと言う。
鎌倉後期の作だそうですが、篤い信仰が伺えました。
阿弥陀仏やら薬師如来、四天王像もじっくり見入りました。
宝物殿は防災対策もちゃんとされているそうなので
これからもしっかりと守って行っていただきたい。
重文じゃなくて国宝でいいんじゃないかなぁ。
拝観客には椎茸茶を振舞っているそうで
2杯ほど頂きました。

と、じっくり見ていたらバスの時間が近づいてきた。
境内の階段を下ると山門があり、
そこを出ると先の白髭神社。
寺務員のおばちゃんいわく、
白髭神社のパワーはすごい、という話だったので
行ってみようと思っていたけど、バス停を見たらもうバスが…っ
結局白髭神社のお参りは出来ずにバスに駆け込み帰路へ。

久しぶりの日帰り登山でしたが
なかなか有意義でした。
総評、大山は神社よりも寺院が好み。
[ 2014年01月27日 21:46 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/08】大山阿夫利神社奥宮

銅の鳥居を抜けて石段を登ると
大山阿夫利神社本社の石碑が見えてきます。

10:32 山頂到着

H25060802大山阿夫利神社奥宮

■大山阿夫利神社奥宮
創建:伝・崇神天皇の御代
祭神:
(本社)大山祇大神
(奥社)大雷神
(前社)高龗神

山頂すぐ、左手側に軽食の出来る売店があり、
そちらでご朱印をお願いできます。
といっても(おそらく)下社で作った書置きのものに
日付を入れるだけのようです。
売店での対応に忙しいらしく、お願いすると少し厭な顔をされましたが
きっと気のせいでしょう…

大山は標高1252m、
日本三百名山や関東百名山のひとつです。
高尾山よりは「本格登山」気分が味わえたかな。
日光男体山のトラウマがあるので、あそこよりしんどい日帰り登山は
きっとそうはないでしょう…

山頂には3つの社があり、
山頂手前の社が前社、
山頂に2つ並んで本社と奥社があります。
奥社は大雷神、前社は高龗神、どちらも水に関わる神様ですが、
江戸時代以前は奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていました。
大山が修験道の聖地だったことが伺えます。
天狗は大山伯耆坊、日本八大天狗の一人です。
ちなみに八大天狗は

相模大山伯耆坊(神奈川)
飯縄山飯綱三郎(長野)
鞍馬山僧正坊(京都)
愛宕山太郎坊(京都)
比良山次郎坊(滋賀)
大峰前鬼(奈良)
白峰相模坊(香川)
英彦山彦山豊前坊(福岡)

だそうです。
いつ頃から言われ始めたのかは解りませんが
日本人は○大なんちゃら、というのが好きですね。
1つ1つ考察するつもりはありませんが、
見て解るとおり、香川に相模坊がいます。
これは、保元の乱に敗れた崇徳天皇が香川に配流され、
無念のうちに崩御したことから、その霊を慰めるために
相模坊が香川白峰の地に来たことに由来するそうです。
多くの天狗がいながら、なぜ相模の天狗が崇徳天皇を関わりがあるのか、
この辺がちょっと解らないですね。
大山伯耆坊は鳥取県の大山を守護する天狗で、
空座になった相模大山の後任として鎮座しました。
となると、伯耆大山が今度は誰もいなくなってしまうわけで…

江戸時代中期になると修験道の山から「大山詣り」の信仰の山として
江戸庶民から愛されるようになりました。
大山詣りは古典落語の演目としても知られていますね。
と、しれっと書いてますが、聞いたことがないので今度聞いてみよう…
落語では、大山石尊大権現は博打と商売にご利益があり、
多くの江戸庶民が参詣したと言われています。
江戸時代には寺社へのお参りがある種の娯楽化、レジャー化していたようです。

DSC_8120.jpg

山頂で奥社と本社をお参り。
山頂に着いて標石を見ると、登りきった感じがして
達成感が味わえます。
自転車でもそうですが、
体力を使って目的地に達成する感覚は年を取るにつれ
味わうことが減っていくので、登山と自転車は続けたいですね。
一から作り上げる同人誌の完成と似たようなものですが。

景色は曇ってしまって視界は不良。
残念だなぁ。
山頂で食べるおにぎりは何故か美味しい。
30分ほど休憩して下山。
休憩中に鹿を見かけてちょっと興奮。

下山ルートは同じところだとつまらないので
日向薬師コースで下山します。
[ 2014年01月26日 21:30 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/08】大山阿夫利神社下社

大山寺のお参りを済ませ、少し登って
ケーブルカーの下をくぐると大山阿夫利神社下社の鳥居が見えてきます。

09:03 大山阿夫利神社下社到着

途中で自分を追い越していった健脚なおばあさんが
私は毎日登ってるのよーっていうから
てっきり好きで登ってるのかと思ったら
境内のお土産屋さんの店員だった。
そりゃあ毎日登りますよね…
お茶飲んでいかない?って言われたけど飲んだら何かを買わないと
出るに出られないので笑顔でスルー。
一応ペットボトル2本とおにぎりは買ってきてあるし。

H25060801大山阿夫利神社

■大山阿夫利神社下社
創建:伝・崇神天皇の御代
祭神:大山祇大神

そこそこ古い神社にいえることですが
創建が崇神天皇の時代というのが非常に多いです。
明治の神仏分離して国家神道として管理するに当たって
祭神や由来を整理したことに由来するのかな。
なので最近は祭神も創建も「参考程度」にしか見てはいませんが、
崇神天皇の御代=紀元前100年頃というよりは
5世紀中頃の大和朝廷黎明期と考えるのが妥当かな。

祭神は大山祇大神ですが、江戸時代までは大山寺で書いたとおり。
しかし調べてると2chでは評判の良くない神社だなぁ…
2chで評判のいい情報を得るほうが難しいけど。

DSC_8026.jpg

拝殿で手を合わせてご朱印をお願い。
本殿の奥には大山豆腐で使うという水が湧いています。
普段なら飲める湧水は飲んでみるんだけど
登山中にお腹が痛くなると一大事なので止めておきました。

さて、一通りお参りやら境内散策を済ませたので
09:15 登山開始。
境内の西側に登山口があります。
しばらくは大きな岩の階段が続きます。
途中で山道に石垣が築かれた部分があり、
ここにも昔はお堂があったのかな。

09:53 天狗の鼻突き岩経過

天狗が鼻で突いて開けた穴との言い伝えです。
大山は天狗の棲む山としても有名でした。
1時間も登ると結構標高が上がってきた感じがします。
ちょっと山の中がガスって来ました。
天気曇り気味だったからなぁ…
雨が降らなければいいのだけれど。

10:06 富士見台経過

富士山が拝める場所で、古くは茶屋もあり、
来迎谷と呼ばれた場所です。
曇っていたので富士山は拝めませんでした。残念。
曇っているので少し涼しく登りやすい。
ひいひい言ってましたが。
さらに30分も登ると銅製の鳥居が見えてきました。
山頂も近いのかな。

山頂へ続きます。
[ 2014年01月26日 19:46 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/08】大山寺

今年(平成25年)は夏山登山に色々行こう!
と思い、練習がてら大山登山に行きました。

結局、25年はこの山1つ登ったきりでしたけどね…
なかなか天気やら都合やら、登山に行けません。
大山程度ならそれ程重装備でなくても日帰り登山が
気軽に出来ます。
大山の先、丹沢のほうに行けば勿論それなりの装備が
必要だと思うので、そこは自己責任ですが。

この日も始発で出発。
2周連続始発とは、健康的です。
早く起きて出掛けると健康的な気分になれるのと
1日が長く感じられて良いですね。
千代田線から小田急に乗換えなので、ほぼ1本のようなもの。

06:57 伊勢原到着

何人か登山客っぽい格好の人がいました。
ここからバスで、終点の大山ケーブル乗り場まで。

07:40 ケーブル乗り場到着

大山も昔は神仏習合の修験の地でもあったので
終点の近くにつれて、元宿坊らしき旅館が結構あります。
バス停の近くの観光案内所で登山計画書を提出するところがあります。
お土産屋や食事処、豆腐屋を抜けるとケーブル乗り場がありますが
登山練習なのでケーブルを使わずに登山道を進みます。
まだ序盤だというのに結構急な階段が続きます。
既に汗だく。既に後悔。
楽がしたい楽がしたい。

08:10 大山寺到着

ケーブルカーで上まで行ってしまうとこの大山寺に寄れないのです。
整備された階段を上ると本堂があります。
景色が開けて相模湾が一望できるスポットです。
江ノ島も見える。

H25060801大山寺

■雨降山大山寺
創建:755年
宗派:真言宗大覚寺派
本尊:不動明王

通称「大山不動」、高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共に「関東の三大不動」に数えられる寺院です。
加須の玉嶹山總願寺を数に入れたりと、何パターンかありますが。
開基は良弁といわれています。
大山は古くより信仰の対象だったとされ、
阿夫利神社の神宮寺として創建されました。
「阿夫利(アフリ)」は大山が常に雲や霧を生じ雨を降らすことから
「雨降り」が転じたとされています。
故に山号も「雨降山」となっています。
江戸時代以前は阿夫利神社と神宮寺は神仏習合で一体であり、
「石尊大権現」と呼ばれていました。
石尊の名前の由来は山頂の岩石に依ります。
石尊大権現の本地仏は不動明王となります。
大山寺は修験道の聖地として信仰され、
江戸時代には徳川家から加護を受け、
江戸時代中期以降は「大山講」が盛んに行われましたが
明治の神仏分離で大山寺は廃寺となり、
多くの文化財が破壊、流出してしまいました。
しかし、1885年に再興され、1915年に寺号が復活しました。

DSC_7976.jpg

8時過ぎに着いたものの本堂には受付は9時からの文字が。
なんてこった…
本堂に手を合わせて境内をうろうろ。
といっても山の中腹にあるので境内がそう広いわけではないので
ベンチに座って本でも読んで時間を待つ。
こんなところで前日に買った「俺妹」の最終巻を読み終える事になるとは
思わなかった。
8時半過ぎに寺務員さんが到着。
いそいそと受付開始の準備をしておりました。
頃合を見計らってご朱印のお願い。
受付時間前だったけど快諾していただきました。

ご朱印を頂いたので大山阿夫利神社を目指します。
[ 2014年01月25日 19:05 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】伊佐須美神社

蚕養国神社の参拝を済ませて会津若松駅へ自転車を返しに戻る。
やはり普段とは違う車輪のサイズ、サドルの高さ、
しかもジーンズを穿いてのママチャリサイクリングは
電動といわれてもきつかった…
距離的には20キロも走っていないと思うのだけれど、
そもそも長距離乗る用には出来ていないってことですね。。
いつもより足が疲れた。

さて、バスの時間は17時なのであと2時間ほど時間が余ってしまった。
近くに時間を潰せそうな…喫茶店はない。
日帰りなので特にお土産も買わなくていいし、
本屋で潰すのも些か寂しい。
伊佐須美神社に行くのを考えていたのだけれど
いざ自転車を借りた時点で、こりゃあ無理だと諦めてしまった。
が、
やはりお参りしようと考え直す。
まだ次に会津に行く機会もないし、宿泊じゃないからタクシーを使ってしまおうと、
駅前のタクシー運転手に神社までの値段を聞くと
5000円はしてしまう、というではないですか。
どうしたものかと、駅の周りを5分ほど行ったり来たりした挙句、
さっきのタクシー運転手に乗せていただくことに。
財布の中身が5000円しか残っていないので
5000円になったら下ろしてくれと頼んだら
5000円を越えたらメーターを止めてくれるというじゃないですか。
ホントはそういうことをしてはいけないんですけどね。
道中色々お話を聞く。
震災以降、会津も観光客が減ってしまったが
大河ドラマの影響でなんとか観光客は増えてきたが、
関東からの日帰りバスツアー客が多く、
宿泊やタクシー利用客はあまり増えていないのだとか。
ただ遊ばせておくくらいなら少しサービスしてでも
利用客を乗せたほうがイイ、ということでした。

タクシーで20分ほどで神社に到着。
最寄り駅の会津高田駅から歩いて1キロほど、
昔はバスも出ていたそうですが今は出ていないとか言っていたかな。
電車の本数も減ってしまったとか、
まぁタクシーの運転手から聞いた話ですが。

15:30 伊佐須美神社到着

H25060105伊佐須美神社

■伊佐須美神社
創建:伝紀元前88年(崇神天皇10年)
祭神:伊弉諾尊 伊弉冉尊 大毘古命 建沼河別命

社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、
四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、
出会った土地を「会津」と名付け、天津嶽(御神楽岳)山頂に国土開拓の祖神として諾冉二神を祀ったのが起源という。
その後、博士山、明神ヶ岳と移転を繰り返し、
552年(欽明天皇13年)に現在地に遷座し、大毘古命、建沼河別命を合祀したとされている、とのこと(wiki
紀元前に蝦夷平定をしたかどうかはなんともいえませんが、
大毘古命が埼玉県行田市の稲荷山鉄剣に刻まれた意富比垝だとすると
5世紀中頃の大和朝廷黎明期、倭国大乱の時代の出来事かと推測できますね。
6世紀中頃に今の地に遷座されたのはこの時代に陸奥国への足がかりが出来たということだろうか。
御神楽岳は猪苗代湖の真西、新潟県にある山。
博士山と明神ヶ岳は伊佐須美神社から南西にある山で、
明神ヶ岳には伊佐須美神社の奥の院があります。

祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命の四柱を総して伊佐須美大明神。
別当は1340年、僧・円済が草創した護国山文殊院清龍寺。
伊佐須美神社に隣接する天台宗の寺院で本尊は文殊菩薩。
伊佐須美明神の本地仏も文殊菩薩のようです。
ちゃんと調べて行けば良かった…
徳川家康のブレーンと呼ばれる南光坊天海はこの伊佐須美神社のある陸奥国会津郡高田郷出身で
蘆名盛高の一族だといわれています。
芦名盛高の娘婿の船木景光は子に恵まれず、
この文殊院で祈願し、授かったのが天海であるといわれています。
天海大僧正の死後、清龍寺の文殊菩薩は天海誕生に関わる霊験あらたかな文殊菩薩像として
江戸上野寛永寺に移され、清竜寺は寛永寺から公辨法親王が開眼された文殊菩薩を、
幕府から三つ葉御紋葵の御紋を拝領しました。

伊弉諾尊と伊弉冉尊はその地の古くからの祖先神、
大毘古命と建沼河別命は律令国家成立時に追加された征服者の神として見るのが
自然な気がするかな。

DSC_7860.jpg

伊佐須美神社はテレビ埼玉でCMが流れていたので昔から馴染みはあったけど
参拝は初めて。
2008年10月3日に火事が起き、拝殿授与所が焼失、更に同月の29日にも出火し、
本殿・神楽殿・神饌所などが全焼してしまったため、
現在再建中で楼門をくぐると仮の拝殿があるだけです。
参道を通るときに再建の寄付を募るおばちゃんから
寄付いかがですか一口5000円と、お土産屋のおばちゃんの呼び込みが如く
声を掛けられて閉口しました…
ご朱印は2面使って500円。
東北は2面使う神社が多い気がしますが、なぜなんでしょう。
ちなみに再建予定の本殿の姿は
旧出雲大社をモチーフにした形ということで
いくらかかるんだろうなぁ…

あやめ苑に猫がいてお参りよりも猫とじゃれている時間が多かったかもしれない。。

タクシーに乗って駅まで戻り、バスの出発時刻までバス乗り場で休憩。
17時にバスで会津を出発し、
21時に王子駅に到着。
バスはがらがらだったのでのびのびと4時間使えました。

しかし一日で回るときつきつですね。
でも日帰り旅は一日がっちり使い切った感じがして
充実感があるので結構好き。
[ 2014年01月23日 00:00 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】蚕養国神社

飯盛山から西へ1キロほど走ると蚕養国神社があります。

14:38 蚕養国神社到着


H25060104蚕養国神社

■蚕養国神社
創建:811年
祭神:保食大神 稚産霊大神 天照大御神

811年に勧請され、1011年に県令だった石部少将道秀らによって社殿が造営された神社です。
その後、兵火で社殿が消失し衰退しますが、
会津藩初代藩主保科正之によりを復興され、社殿を造営、
1807年、再び社殿が火災にあい消失しますが、
1819年、8代藩主・松平容敬が再建されました。
祭神の保食神は穀物の神、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視されることもあります。
また「ウケ」という名から、豊受大神とも同一視されます。
保食神に関してはややこしいし、考察は前にもやった気がするので割愛。
稚産霊大神も穀物の生育を司る神です。
記紀では伊邪那美命が火の神・火之迦具土神を生んで火傷をしたあとに
生まれた神様で、食物を生じる神として描かれています。
日本書紀では生まれたとき、神の頭の上に蚕と桑が生じたことから
養蚕の神としても崇められています。
養蚕の神と言ったら木花開耶姫命をイメージしてしまいますが
稚産霊大神を養蚕の神として奉じる神社も多いようです。
どこが違うのか、ちょっとわからないですね。
木花開咲耶姫命は秦氏の流れを汲む印象があるので、
それとは違う養蚕技術の流れがあるのだろうか…
ちなみに少し調べてみると、会津は養蚕の盛んな地域だったようですね。
うちの祖父の家も昔は2階が蚕部屋で
副業に蚕を飼っていたそうです。
農家の得られる貴重な現金収入源として
蚕は重宝されたようですね。

DSC_7838.jpg

境内には樹齢900年以上のご神木の桜の木があり、
幹が立派でしばし見入ってしまいました。
震災の影響で社務所と拝殿の一部に影響があったようで
復興の寄付を募っていました。
[ 2014年01月19日 19:45 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】飯盛山宇賀神堂

白虎隊記念館を抜けると鳥居が見えます。
鳥居の先には厳島神社。
神社の左手には白虎隊士が抜けてきた戸ノ口堰があります。
厳島神社でもご朱印が頂けると言う情報があったけど
どうも社務所のようなものはありませんでした。

右手には結構急な階段があり、そこを登りきるとさざえ堂がお出迎え。
正宗寺円通三匝堂、通称サザエ堂は正宗寺の仏堂として、
1796年に当時の住職であった郁堂が建立したもの。
平面六角形の特異な建物で、外観は三層構造に見えますが、
内部には二重螺旋構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在するため、
入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる稀有な建物です。
阿弥陀如来を本尊とし、斜路には三十三観音像が安置されていましたが、
明治の神仏分離で正宗寺は廃寺になり、
サザエ堂は個人所有の建造物となりました。
堂内にあった三十三観音像は他所へ移され、代わりに「皇朝二十四孝」の額が取りつけられています。
「皇朝二十四孝」は会津松平家第8代松平容敬が掲げた藩の教科書のようなものだそうです。
拝観料300円(だったかな)を入って中を上がって下がる。
なんか誰ともすれ違わないので不思議な気分ですw
サザエ堂の隣には宇賀神堂があります。

H25060102白虎隊十九士霊神

■飯盛山宇賀神堂
創建:寛文年間(1661年~1672年)
祭神:宇迦之御魂神

会津3代藩主松平正容により宇賀神像が奉祀された御堂です。
ここも神社か寺院かで悩みましたが
祭神が一応宇賀神ということだし。
昔は神仏習合なので稲荷だろうが弁天様だろうがどっちでも解釈が出来て
自由だなぁ。
1890年、白虎隊士の墓の改修に際し、自刃した白虎隊士19名の霊像が奉納、安置されました。
像と共に、一人生き残った飯沼貞吉の写真も飾られています。

DSC_7736.jpg

写真はサザエ堂。
ご朱印は宇賀神堂横の飯森本店で頂けます。
宇賀神堂をお参りして山の頂上にある白虎隊士の墓参り。
自刃した19人のお墓の脇には
戦死した白虎隊三十一士の墓もあります。
お墓に手を合わせます。
帰りは正面の階段を使って下山。
まだ時間はあるのでサイクリングしながら会津若松駅を目指そうと思います。
[ 2014年01月19日 16:39 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】飯盛山

天寧寺を下山して飯盛山へ向かいます。
自転車で2キロくらいです。
飯盛山は新撰組の史跡とはあまり関係はないですが
会津に行ったら鶴ヶ城と飯盛山にやはり行かないと
会津に来た気分がしません。
飯盛山に登るのも20年ぶりくらい。

山頂まではずっと階段でまっすぐ登れるようになっていますが
いつの間にかエスカレーターも付いていました。
ちなみに有料で250円。
折角なので階段を使おう。
ちなみにこのエスカレーターの料金支払所でお願いをすると
参拝記念のご朱印が頂けます。

H25060103忠烈白虎隊

■飯盛山
創建:1868年
祭神:自刃した白虎隊士19名の霊

ご朱印というか参拝記念というか難しいところです。
神社でも寺院でもないし。
でも会津戦争で命を落とした白虎隊の英霊を祭るということで
広義の「神社」という認識です、自分の中で。

飯盛山の名の由来は、この山が飯を盛ったような形からと言います。
飯盛山には古くは正宗寺という寺院があり、
飯盛山の宗像神社(現:厳島神社)の別当でした。
明治の神仏分離で寺院は破壊され、飯盛山の麓には厳島神社と
幾つかのお堂を残すだけとなっています。
寺院跡というよりは白虎隊自刃の地として整備され
白虎隊記念館もあります。

白虎隊は会津戦争に際して組織された
16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。
名前の通り、他にも玄武隊(50歳から56歳まで)、
青龍隊(36歳から49歳まで)、朱雀隊(18歳から35歳まで)の
年齢に別れた4つの部隊が編成されています。
玄武隊は予備、青龍隊は国境守備、朱雀隊は実践、
白虎隊もまだ年齢的には若い男子が多かったため
青龍隊や朱雀隊の支援・補佐的な役割をする予備部隊だったといわれています。
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度でした。
会津戦争が始まると武器兵力共に新政府軍に著しく劣った会津軍は悉く戦に破れ、
支援部隊であった白虎隊や玄武隊も全線へと進軍し、
老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局となってしまいます。

白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、
士中隊一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たりましたが、
士中隊二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、
8月23日に負傷者を抱えながら飯盛山へと落ち延びました。
このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、
市中火災が鶴ヶ城の陥落に見えてとの話ですが、
総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡しました。
その後も士中一番隊は鶴ヶ城に入城して篭城戦に参加し、
9月22日、会津藩は新政府軍に降伏しました。
自刃した隊士の遺骸は、政府軍により手をつけることを禁じられ、
約三ヶ月後、村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、
その後この自刃地に改葬されました。
現在の形に十九士の墓が建てられたのは1890年のことです。

会津戦争で降伏したことで、会津藩領は会津松平家から没収され、
藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となります。
1869年、容保の嫡男・容大は家名存続が許され、陸奥国斗南に斗南藩を立て
多くの会津藩士が斗南藩に移ったと言われます。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5千石でしたが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、
実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎず、
森林は豊富であったものの、林業を有効活用することが出来なかったそうです。
また、南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、
移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたといわれています。
1871年7月14日の廃藩置県で斗南県となり、
同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅しました。

一方、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置されました。
1871年7月14日の廃藩置県では、会津地方は若松県となり、
1876年8月21日には福島県と磐前県と合併され、福島県に入れられました。
廃藩置県後も福島県と政府には軋轢があったようで、
自由民権運動が盛んであった会津地方に対し、福島県令として就任した三島通庸は
越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道の建設を推進し、
建設のための重税や労役を義務付け、また道路用地を収用するなど、住民への負担を強いました。
三島通庸は薩摩出身、戊辰戦争でも活躍した人物であり、
旧会津藩に対し、何らかの思い入れがあったのではないかと想像します。
住人へ過酷な負担を強いた三島に対しての反対運動が福島事件へと発展しました。
そんな三島ですが、山形県令時代にもインフラ整備、殖産興業で
県民に過酷な負担を強いましたが、
その結果、山形県の近代化、発展に大きく寄与したとして
山形県と福島県で大きく評価が割れている人物です。

その後の勝手な空想ですが、
会津藩の関わった旧斗南藩には現在六ヶ所村があり、
日本原燃が所有する核燃料の再処理工場があります。
福島県には福島第一原子力発電所があり6機、
第二原子力発電所には4機の原子力施設があります。
1つの県内に10機の原子力発電施設があるのは他県に比べて
多いかと思います。
福井には11機あるけど。
薩長勢力の延長である日本政府の中に
ある種の「会津藩差別」的なものがあったのではないか、と邪推してしまいます。
立地条件等、いろいろなことに起因しているとは思いますが。

話が逸れました。
ちなみに会津戦争勃発にあたって、
幕末の浦賀、蝦夷地の警備やその後の京都守護職就任によって
会津藩は領民に重い税を課していたため、
領民は会津藩士に協力的ではなかったともいわれています。
結果、会津戦争に当たって領民に徴兵をしようとしたところ失敗し、
新政府軍を歓迎したともいわれています。
幕末では藩士と領民の間に温度差があったのに
その後、会津は一丸となって長州を毛嫌いしているところが
歴史の面白いところだなぁと思ったり。
新政府の戦後処理のあり方やその後の福島事件のような弾圧によって
憎悪の念が徐々に膨らんで入ったのかなと感じます。

DSC_7700.jpg

飯盛山の入り口にはお土産屋が立ち並びます。
白虎隊自刃の地という悲劇を売りに観光に繋げる姿勢に
どことなく違和感を感じましたが。
戦国時代の合戦後よりも幕末の合戦後の方が年代的に近かったり、
死者数が多いからか、どうも「観光地」化されていることに
上手く折り合いが付けられない自分です。
傘の持ち手がゲペール銃の形をしたお土産とか
まぁちょっと買おうか悩みましたが、
きっと買っても使いません。。

階段を使えば真っ直ぐに墓前の広場に辿りつきますが、
折角なので白虎隊記念館の脇を通って登ろうと思います。
長くなったので続きます。
[ 2014年01月19日 14:54 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】天寧寺

鶴ヶ城を後にして、松平家墓所を目指します。
直線距離で2キロもないのでなんとかなりそう。
が、さすがにお腹が空いたのでお昼にしよう。
会津のB級グルメといったらカレー焼きそばかソースカツ丼。
どっちにしようかなああああ
と、悩む。
しかし、自転車に乗るにはがっつり行きたい!ということで
ソースカツ丼にしよう。
目に入った店が入れそうならそこにしちゃえと自転車を走らせると
「すみれ食堂」の看板を発見。
ソースカツ丼があったので入店。
時間も12時前なのでそんなに混んでませんでした。
ソースカツ丼を頼んでしばし待つと…

カツが3枚乗ったソースカツ丼登場!

見事なボリューム。
ソースもカツも美味しい。
栄養を取って再出発。

12:35 宗英寺到着

瑞雲山宗英寺は蘆名氏所縁の曹洞宗の寺院。
お参りして寺務所(兼住宅?)の呼び鈴を押したけど不在。
地方の檀家寺にはよくあることです。
ご朱印も期待していませんでしたが、念のため…w

宗英寺を過ぎて会津武家屋敷を越えると松平家墓所。
会津武家屋敷は会津藩家老西郷頼母邸を中心とした歴史資料館。
時間が読めないので今回はスルー。

12:46 松平家墓所到着

山の中にある厳かな霊廟です。
松平容保の墓参りをしようと思ってきたものの
観光客は自分だけ。
墓所は山の中腹にあり、入り口から15分くらい、
山道を歩かないといけないらしい…
結構あるなぁと足を踏み入れると看板が。

「熊出没注意」

いやいや、熊除けの鈴なんて装備していませんよ…
歌でも歌いながら登ろうか!と思ったけど
こんなところで熊に遭遇したら洒落にならん、とびびって下山。
お墓は麓からの遥拝ということで…

会津武家屋敷に戻って手前の道を進むと天寧寺の入り口に出ます。

13:00 天寧寺到着

H25060101天寧寺

■萬松山天寧寺
創建:1447年
宗派:曹洞宗
本尊:釈迦牟尼仏

1447年、蘆名盛信が創建したと言われる寺院。
蘆名氏の菩提寺でした。
戦国時代を経て、蘆名氏が会津を追われた後も
周囲の人びとの尽力によって維持され、現代に続いています。

ここ天寧寺には新撰組所縁の寺院のひとつ。
戊辰戦争に敗れ刑死した新選組局長近藤勇の墓があり、
墓は土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといわれています。
4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されます。
近藤は1868年4月25日に板橋刑場で斬首、首は京都の三条河原で梟首された後、
近藤を葬ったとされる墓が幾つかあります。
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したといわれていますが、
一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、
同寺に近藤の首塚があります。
また、近藤の出生地である東京都三鷹市の龍源寺や
処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも永倉新八により建立された墓所があります。
山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓があります。

また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、
戊辰戦争の責任者となり1869年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。
萱野権兵衛は「八重の桜」では柳沢慎吾が演じていましたね。

DSC_7661.jpg

天寧寺は狸ケ森山の中腹にあります。
階段を登り真新しい本堂をお参り。
本堂の右手側に寺務所があり、声を掛けても反応がない…
戸が開いたので中に入ると玄関に靴はあるし
奥からテレビの音がする。
「八重の桜」を見ているようでしたw
再度声を掛けると置くから寺務員さん?住職?がいらっしゃったので
ご朱印をお願い。

ご朱印を頂いてから近藤の墓参り。
今更ながら、山を挟んで反対側が松平家の墓所だと気付き、
この墓地から林の中を抜けるのかと思うとちょっとドキドキ。
道中新撰組ファンっぽい数人組と擦違う。
とはいえ1組ですが。
近藤の墓の横には土方の慰霊碑もあります。
二人の墓が松平家墓所の近くで会津の街を見守っているという感じです。
近藤は会津藩預かりでも会津まで行ってませんけどね。。

天寧寺をゆっくりお参りして、
次は飯盛山を目指します。
[ 2014年01月17日 21:51 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/01】鶴ヶ城稲荷神社

次はどこの本にしようかなぁ、なんて悩みながら
近所の居酒屋で軽く晩酌をしつつテレビを見ていたら
NHK大河ドラマの「八重の桜」も相俟ってか、
テレビで会津若松の旅番組をやっていて
ああ、新撰組好きだから新撰組に関する寺社を特集しよう、と
うっすら絵が思い浮かぶ。
新撰組といえば壬生寺は既にお参りしたし、
後は八王子周辺のお参りをすれば纏まるかも、と思ったけど
やっぱり終焉の地、会津にも行きたいなと思い、晩酌を早々に切り上げ、
翌日、始発の上野発のやまびこに乗って目指すは郡山。
郡山からは高速バスに乗り換えて会津を目指します。

08:46 会津若松駅到着

さて、駅前でレンタサイクルがあるというので早速借りに行くと
電動式自転車(ママチャリタイプ)しかないという。
普通のでいいんだけどな…と思っていると
電動式は楽ですよ、というので、まぁ借りてみようかと
初めての電動自転車体験です。
普段スポーツタイプしか乗らないので、まず座席が低い!
ぎりぎりまで上げてもまだ低い!
あと、サドルが分厚い!
車体が重い!
うーん、これで大丈夫かな…ちょっと不安になる。
次は帰りの足を確保しておこう。
聞くと、会津若松発の王子経由の高速バスがあるというので
先にチケットを購入。
出発は17時なので効率よく会津若松を観光しましょう。

09:10 会津若松駅出発

まず目指すは新撰組終焉の地の如来堂。
新選組殉難の地。
戊辰戦争の母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと
会津に留まろうとする斎藤一らに分かれ、
このとき斎藤は数名の隊士と会津の地に残る決意をしました。
1868年年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げ
このとき全員討ち死にしたとされています。
実際には、斎藤一をはじめ数名が生き残りましたが。
そんな熾烈極まる戦いの行われた如来堂。
新撰組の終焉の地といわれる所以です。
そんな如来堂をお参りします。

09:40 如来堂到着

如来堂は会津若松駅から2キロほど、
阿賀川の畔の畑の中にある草臥れたお堂です。
自分以外観光客はいませんでした。
詳細は調べてもちょっと解らないですが
裏手には八幡神社があるので本地仏の阿弥陀如来を祭っているのかな。

ここからまた会津若松駅に戻り、鶴ヶ城を目指します。
道中幾つか寺院があるのでお参りします。

10:03 阿弥陀寺到着

七日町駅前にある阿弥陀寺へお参り。
正覚山阿弥陀寺という浄土宗の寺院です。
1603年、良然和尚が開山、戊辰戦争で堂宇が焼失し、
1871年には若松城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としました。
境内には、戊辰戦争で戦死した1300名の遺骸が埋葬されました。
この寺院には斎藤一の墓もあり、新撰組ファンが多く訪れるそうです。
ご朱印をお願いしようと思ったら不在のよう。
近くの住職は見性寺と兼任をされているようで
普段はそちらにいらっしゃるとのこと。

10:15 見性寺到着

阿弥陀寺のすぐ近くにあります。
願求山見性寺は浄土宗の寺院。
1619年、良然上人の隠居寺として草創。
戊辰戦争で堂宇は焼失し、
1973年に本堂が、1981年に観音堂を再建されました。
お参りして寺務所へ。
…インターフォンを押せども応答なし。
中に人がいる雰囲気はあるのだけど。
と思って境内を見て廻っていると中から住職が出ていらしたので
ご朱印をお願いできないか尋ねてみると
これから法事らしい、ご朱印はやっていないとのこと。
残念です。

鶴ヶ城へ向かう途中、おばちゃんに道を聞かれたが
こちらは観光客なので解るはずもなく…
おばちゃんに道を聞かれる率の高い人間です。。

10:50 鶴ヶ城到着

会津に来たからには鶴ヶ城に登らないと。
20年位前に家族旅行で会津に来て以来です。
さすがに鶴ヶ城に来ると観光客も多い。
八重の桜効果でしょうか。
東北に観光客が流れるのは良いことです。

登城前に周辺を散策すると、鶴ヶ城稲荷神社を発見。

H25060101鶴ヶ城稲荷神社

■鶴ヶ城稲荷神社
創建:1384年
祭神:宇迦魂命

1384年、葦名直盛が東黒川館 (鶴ヶ城) の鎮護として、鎌倉より移した神社です。
鎌倉の稲荷神社といったら佐助稲荷かなと思ったけど
田中稲荷のようですね、今も鎌倉にあるのかな…

鶴ヶ城は別名・会津若松城。
戦国時代を経て、蘆名氏、伊達市、蒲生氏、上杉氏、加藤氏を経て
1643年、保科正之が入城します。
保科正之は徳川秀忠の四男として生まれ、
旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育されました。
正之を3代将軍家光は有能な異母弟をことのほか可愛がったといい、
家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残したほどです。
これに感銘した正之は1668年に『会津家訓十五箇条』を定め、
第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、
以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず
生涯保科姓を通しました。
松平姓になったのは。第3代・正容になってからで
葵の紋を使用し、親藩に列するようになります。
第9代藩主・松平容保が京都守護職になり、新撰組との関わりは金戒光明寺で書いた通りです。
『会津家訓十五箇条』を頑なに守り、
江戸城開城後も引き続いた戊辰戦争の中で会津戦争へと突入してしまいます。
会津城は新政府軍の攻撃を1ヶ月間持ちこたえ、
遂に城は落ちなかったが、その後開城されました。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置され、
1873年1月、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により存城処分と決定しますが、
1874年1月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、
石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」とされ、
天守をはじめとする建造物は総て解体されました。
本丸にあった櫓の一つである「御三階」は、先の阿弥陀寺に移築され、現存しています。
1890年、明治政府は鶴ヶ城そのものの消滅を謀り、残っている城郭のすべてを競売にかけますが、
仙台の七十七銀行頭取で、旧会津藩士の遠藤啓士は寄付を募り、
私財をなげうって落札し、元城主の松平家に献納しました。
1917年には城跡の近代公園化の方針が計画され
1934年に国の史跡に指定されました。
戦後の財政非常事態解決策の一環として
1960年までには現在の形状に復旧され、
1965年に鉄筋コンクリート造により外観復興再建された、今に至ります。

戊辰戦争の影響は勿論稲荷神社にもあり、
明治に入り鶴ヶ城が解体された後は蒲生氏郷が創建した甲賀町稲荷神社に御神体を合祀安置し、
鶴ヶ城稲荷神社と改称、
鶴ヶ城が競売を免れ松平家に献納された結果、場内に再建されました。
現在は蚕養国神社の管理の下、広く人々の信仰を集めています。

DSC_7546.jpg

お参りをし、ご朱印を頂く。
ご朱印は書置きでした。
登城して上から会津の街を眺めたり、
場内を散策したり。

次は松平家墓所を目指します。
[ 2014年01月15日 23:15 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/18】野毛山不動尊

伊勢山皇大神宮をお参りし、同じ野毛山にある野毛山不動尊へ。
ここも東海道自転車旅中に看板だけ見かけたけど
通ったのが早すぎたので先送りした寺院。
不動尊好きなのでやはり行かないと。

10:35 野毛山不動尊到着

H25051801延命院

■成田山 横浜別院 延命院
創建:1870年
宗派:真言宗智山派
本尊:不動明王

こちらも伊勢山皇大神宮同様に明治になって横浜が港町として栄えるようになって
建立された寺院。
成田山新勝寺の横浜別院で、通称は野毛山不動尊、横浜成田山。
1870年、成田山新勝寺より分霊を勧請し、横浜市南区西中町の普門院境内に遙拝所を設立したことに始まります。
1876年、現在地に移り、成田山教会所と改め、
1893年、成田山横浜別院延命院となる、今に至ります。

DSC_7282.jpg

伊勢山皇大神宮をお参りして看板に言われるがままに走ったら
山の裏手に出てしまい、山頂からお参り。
裏手から回って新本堂の建立予定地を見る。
階段を下ると池の前に出る。
池には亀がわんさかといて、この広さの池にこんなにいるのか、と
少し圧倒される甲羅干しの量。
池の中にはすっぽんらしき姿も。
みんなほいほい池に亀を放すのを止めましょう。
お参りをしてご朱印を頂く。

行きは第一京浜を通って横浜に来たので
帰りは第二京浜を通って東京まで。

行って帰って90キロくらい。
運動にはちょうどいい距離ですが、
帰ってから結局飲みに行くのでとんとんです。
[ 2014年01月14日 22:04 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/18】伊勢山皇大神宮

東海道サイクリングを終え、コミティアも終わってちょっと落ち着いたので
横浜まで軽くサイクリング(ぁ
うちから横浜まで3時間もかからないことに気付いたので
どれくらいで着くかをタイムトライアルを兼ねて。
ちょっと寝坊して7時過ぎに家を出て、10時過ぎに伊勢山到着。
距離にして40キロちょっと。
早いか遅いかといわれると遅いですが。。
桜木町駅の紅葉橋から伊勢山までの鬼のような登り坂を
今度こそは登り切ろうと思ったけど
道が細い上に交通量が多くてなかなかクリアできない…
次こそは、と思いつつ、もう横浜まではしばらくいいやw

10:11 伊勢山皇大神宮到着

H25051801伊勢山皇大神宮

■伊勢山皇大神宮
創建:1870年
祭神:天照大御神

創建は1870年、明治になってからの創建です。
横浜の総鎮守とされ、「関東のお伊勢さん」として知られています。
横浜が幕末以降、貿易の街として急速に発展し、
キリスト教を始めとする外来文化に接する横浜の精神的支柱とするために神社信仰の確立が必要と考え、
元々戸部村海岸伊勢の森の山上にあった伊勢山皇大神宮を
1870年4月に現在地の野毛山に遷座した、という経緯があります。
遷座後、伊勢神宮の遥拝所とし、県内の総社として整備され、今に至ります。

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坂をひいひい言いながら登りきり、伊勢山ヒルズの裏側からお参りに行くと
ちょうど結婚式の祝言を挙げていました。
拝殿周りには結婚式に参加した着飾った女性や親族。
そんな中、自転車で登ってきてひいひい言ってる汗達磨。
あまりの場違い感に参拝してご朱印を頂き、いそいそと下山。
天気も良かったし…おめでたいことです;;

[ 2014年01月14日 19:42 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】龍田神社

慈光院を出て国道25号へ合流。
途中で法起寺を通った。
前は大阪から奈良市内に向けて走ったけど
今回は逆ルート。
時間があったら法隆寺周辺もじっくり見たいところですが
奈良から大阪に入るためにはまたひとつ峠を越えないといけないので
暗くなる前に余裕をもって走りたい。
法隆寺や生駒周辺はまた今度しっかり見て廻ろう。

というわけで法隆寺の門を素通り。
なんとなく贅沢な気分。。
法隆寺から1キロも走らない距離に龍田神社があるので
こちらをお参りします。
この日は寺院ばかりで神社のお参りをしていなかった。

14:06 龍田神社到着

H25050201龍田神社

■龍田神社
創建:崇神天皇の御代
祭神:天御柱命 國御柱命
   竜田比古神 竜田比女神

聖徳太子が法隆寺の建設地を探し求めていたときに、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、
「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、
その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建した、とのこと。(wikiより
この地には龍田明神を祭る鎮守の社が既にあったけど
法隆寺建立に当たってしっかりした神社を創建したと言う事かな。
ちなみに信貴山の南側にある竜田山の麓にある龍田大社から
法隆寺を建立に当たって大社から分祀して守護神として祀った、ともいわれているので
「崇神天皇の御代」からというのは龍田大社の縁起をそのまま継承してる気もする。

祭神は龍田比古神・龍田比女神の二神の龍田大明神。
龍田明神は風の神で広瀬神社の水神と並び称されました。
広瀬神社は法隆寺の南に位置する大和川・飛鳥川・曽我川が合流する川合いに位置する神社。
水の神といわれる所以もなんとなく解りますが
龍田明神がなぜ風の神なのだろうか。

龍田比古神・龍田比女神は夫婦神でもあり、
龍田明神は白髭の老人であるといったり
夫婦神であるといったり、ややこしいですが
日本の神様はこんなのが多いのでそういうもんだと納得しておきますw
龍田比女神は別名・竜田姫と呼ばれ、秋の神としても信仰されました。
春を司る佐保山の佐保姫と東西・春秋の一対の女神としても崇められました。
佐保姫を祀る佐保山は奈良市の法華寺の北側にあった丘陵で
今でも佐保台の地名が残っています。
竜田姫の「タツ」が「裁つ」に通ずるとして、裁縫の神としても信仰されました。
ここで、風は五行でいうところの木気(東)に配当されているはずなのに
西である「秋」の神とされているのかという疑問が生じますが
東の神(風神)をあえて西に祭ることで
その凶作用を吉に転じて吉の作用である豊穣をもたらす神とした、という説があるそうです。

と、龍田神社というよりは龍田大社の解説のようになってしまった。
後に龍田大社より天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れ、
現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀しています。
天御柱命・國御柱命については龍田大社にお参りしたら考察しよう。
先送りです。

明治の神仏分離により法隆寺から離れ、龍田大社の摂社となったが
独立の請願の結果、大正11年3月に龍田大社より独立し、県社に列格し、今に至ります。

法隆寺と龍田大社は斑鳩においては切り離せない関係にあるようですね。
この斑鳩の地は元は物部氏の領地でしたが
587年7月、仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が起こした乱(丁未の乱)によって
物部氏が滅びると
聖徳太子は601年に斑鳩宮を造営し、605年に移り住みました。
龍田明神から「譲り受けた」斑鳩の地は
物部氏から奪った土地だった、という読み解き方も出来ます。
そうすると龍田明神の風貌の「白髭」から「白髭明神」へ、
白髭明神は新羅系渡来人の奉じる神であり、
祖が新羅系の金属精錬技術者集団と言われる物部氏にも繋がります。
もし龍田明神が物部氏であるとするならば、
「崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、
天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、
夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建された」という
「龍田風神祭祝詞」の由来も
怨霊である龍田明神を鎮魂する行為に見えてきます。
ただ、物部氏の滅亡は崇神天皇じゃないので
過去の時代の出来事に遡ってに今起きた出来事を書くという
「仮名手本忠臣蔵」理論ではないかとも思います。
思いつきですがw
聖徳太子周辺の歴史を調べていくと面白いです。

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東海道自転車旅最後の神社をお参り。
この先に龍田大社や久度神社が道沿いにあったのですが
もう疲れてしまってそこまで行く気力がなくなりましたw
龍田神社でお参りし、最後のご朱印を頂く。
社務所で少しお話をし、
東京から自転車で(中略)というと驚かれました。
自分がそんな人と遭ったら驚くだろうと思いますけどねw

龍田神社沿いの道は昔の雰囲気が残っていて、
古い建物の酒屋をみて日本酒を買いたくなるも、
自転車が重くなるし、と思って買わず。

王寺町役場を越えて大和川沿いの国道25号を走る。
ちょっとした峠になっているので気合を入れる。
越えれば大阪府。

14:41 大阪府柏原市入り

龍田神社を出てから40分くらいで大阪入り。
思ったより近かったなぁ…
アップダウンよりも交通量の方が怖い。

大阪入りして1時間ほどで目的地の知り合いの家へ。
知り合いは仕事中だったのに家に上がらせてもらって
アニメを見ながらマッサージチェアで転寝。
酷い客人ぶりです。
明日は新大阪まで走って新幹線で帰ろうと思っていたのだけれど
知り合いの計らいで東京までドライブしてくれることに。
18時過ぎに大阪を出て翌日の3時頃自宅に帰宅。
途中のSAでうどんやらそばを食べつつ。

事故らず東海道を走破して無事帰宅できました。
そのうちまとめて本が出来ればいいなぁと思いつつ。
しかし、ブログで書ききるのに8ヶ月もかかってしまった。
新年になったのでまだ去年の前半のお参り記事をまとめているのも
問題だなぁ。
ちょっと頑張って更新しよう。
[ 2014年01月14日 00:03 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】慈光院

大和郡山城を右手に近鉄橿原線沿いを走る。
ここから法隆寺方面へ走って行こうと地図を見たら
地図に星印がついている。
自分で、今度ココに行ってみよう、と思った寺社や史跡は
グーグルマップにチェックを入れているのですが
はてなんだっけ…?と思ったら慈光院。
ちょうどこの自転車旅をする1ヶ月前にテレビの番組で
慈光院の庭園を放送していて、ちょっと観にいこうと思っていたんだった。

13:10 慈光院到着

H25050205慈光院

■円通山慈光院
創建:1663年
宗派:臨済宗大徳寺派
本尊:釈迦如来

石州流茶道の祖・小泉藩主片桐石見守貞昌が父・貞隆の菩提寺として創建した寺院。
小泉藩の藩祖は、賤ヶ岳の七本槍の一人として名を馳せた片桐且元の弟・片桐貞隆で、
貞隆の子である第2代藩主・片桐貞昌は茶人として高名であり、「片桐石州」の名で知られています。
まぁ自分は茶道に明るくないので知りませんでしたが…
1665年には将軍・徳川家綱の茶道指南となり、茶道石州流の地位を築き上げました。
慈光院は菩提寺であると同時に、茶人貞昌が茶席としてプロデュースされた建造物で、
農家風の外観をもつ慈光院の中心的な建物に入母屋造茅葺屋根に桟瓦の庇をめぐらした珍しい寺院です。
山門は摂津茨木城の楼門をもらい受けたもの。
ひっそりと佇む趣ある寺院でした。

DSC_7084.jpg

境内・庭園共に落ち着いた雰囲気です。
拝観料を納めて境内に上がるとお抹茶の接待が頂けます。
拝観料は1000円と、ちょっとお高めですが…
お抹茶を頂いていると住職が他の団体客に向けて講話をされていたので
自分も拝聴。
さすが関西のお坊さんは話が上手い。
まぁお坊さんはみんな説法なれしてるので
どこで話を伺ってもみんな上手に話されますが。
寺院は少し高台に建立されているため、
大和郡山の街の景色も一望できます。
広い座敷でお抹茶を頂きながら庭を見て一服。
少しゆっくり身体を落ち着かせました。

あまりに長く休憩すると自転車を漕ぐ足が鈍ってしまうので
程よい時間で再出発。
法隆寺を目指します。
[ 2014年01月12日 13:52 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】興福寺北円堂

南円堂を頂いたので、残りの1冊は北円堂で頂きます。
これで多分興福寺のご朱印は全箇所頂いているはず…
まぁ全部頂いたからもう行かないということはありませんが。
奈良公園好きですし。

H25050203興福寺北円堂

■興福寺北円堂
創建:721年
宗派:法相宗
本尊:弥勒如来

興福寺北円堂は藤原不比等の一周忌にあたる721年8月に、
元明太上天皇と元正天皇が建立したお堂。
元明天皇は父・天智天皇で母・蘇我姪娘という女帝。
蘇我姪娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘。
蘇我倉山田石川麻呂は大化の改新の際に天智天皇や中臣鎌足に味方をした蘇我氏ですが
649年に謀反を起こそうとしている、と異母弟の蘇我日向に密告されて
自害しています。
この騒動も天智天皇による謀略とも言われています。
石川麻呂は死後に無実が証明されると、密告した日向は筑紫宰として筑紫国へ派遣されました。
左遷と取るか、栄転と取るか。
元正天皇は父・草壁皇子で母・元明天皇という女帝。
元明-元正と女帝が続きます。
元正天皇の弟・文武天皇が15歳で即位し24歳で崩御したため、
母である元明が即位、その後に元正が即位という流れです。
草壁皇子が早死しなければ即位はしなかったかもなぁ…

藤原不比等は藤原鎌足の次男で壬申の乱の際にはまだ13歳と若く、
乱に巻き込まれることはありませんでしたが、
天智系の中臣氏の多くが処罰されたことに受けて後ろ盾を失い、
田辺史大隅を養父に育ちます。
田辺史大隅は今の大阪府柏原市田辺にある田辺廃寺跡周辺を本貫地とした百済系の田辺史氏が出自。
以前に書いたとおり、中臣鎌足と百済には密接な関係があったと考えていますが
その縁で田辺史大隅が育てたのではないかと考えます。
不比等の名前も「史=フヒト」から採ったと『尊卑分脈』にあり、
「不比等」の当て字は以後になって当てられたものと考えられます。
「藤原姓」は中臣鎌足が天智天皇から賜ったものですが、
鎌足の死ぬ1日前のことであったため、
実際に藤原姓を名乗ったのは不比等からですね。
そんな不比等は天智天皇の御落胤という説が古くからあります。
後の世を支配する藤原氏の祖とも言われる人物の出自も名も曖昧、
ましてや兄・定恵に至っては10歳で遣唐使として唐に渡ったり、
帰国した翌年、664年に死去しますが、
669年に死去した鎌足を祭る多武峯妙楽寺(現・談山神社)を創建していたりと
最早辻褄すらあわない人物です。
定恵は藤原氏が仏教に帰依するに当たって作られた人物ではないか、と勘繰ってしまいます。

697年、不比等は39歳で持統天皇の譲位により即位した文武天皇の擁立に功績があり、
その後見として政治の表舞台に出てきます。
20歳前には政界デビューする時代なので相当の遅咲きです。
文武天皇の擁立までに不比等は元明天皇付き女官で橘三千代を後妻に迎え、
彼女の力添えにより皇室との関係を深めて行き、
文武即位後には長女・宮子を后に送り込んでいることから、
しっかり立身出世の地盤は固めていたようですね。
文武天皇と宮子の間には聖武天皇が生まれ、
さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせ
藤原氏の地位をより磐石なものへと固める一方、
大宝律令の編纂に尽力したり、律令国家形成にも尽力をします。
720年に死去、63歳でした。
天武天皇が編纂を勅願した記紀の完成も不比等の御世のため
記紀は日本や天皇の歴史を記した書物に見せかけた
藤原氏の正当性を記した書物ではないかと思う。
「藤原」という名称も地名から付けたというけれど
古代は「フジ」という言葉に何か特別な意味があったんじゃないかなぁ。
まぁ何の根拠もないけど。

さてこの興福寺は藤原氏の氏寺ですが
669年に送検されたときは山背国山階にあり、山階寺という名前でしたが、
672年、藤原京に遷都すると共に移り厩坂寺と称し、
710年の平城遷都に際し、不比等が厩坂寺を現在の地に移転し「興福寺」と名を改められた経緯があります。
春日大社が作られたのもこのときです。

DSC_7025.jpg

北円堂も特別拝観をしていましたがスルー。
もったいないことをした。。

さすがに朝から何も食べずに走ってきたのでお昼が食べたい。
そんなことを思いながら興福寺を後にします。
奈良バイパス沿いでラーメンを食べた。
奈良まで来てラーメン。

[ 2014年01月12日 02:28 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】興福寺南円堂

ちょうど興福寺にお参りした期間に南円堂と北円堂の特別拝観期間で
拝観客が多かった。
なので南円堂でご朱印を頂く。

H25050202興福寺南円堂

■興福寺南円堂
創建:813年
宗派:法相宗
本尊:不空羂索観音

藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。
藤原冬嗣は807年の伊予親王の変で南家の、810年の薬子の変で式家の勢力が衰えると、
嵯峨天皇の信任を得て藤原北家繁栄の礎を築いた人物です。
政変で徳をした人物が怪しいと思う性質なので
伊予親王の変も薬子の変も藤原北家の謀略じゃないかと勘繰ってしまいますが
どうなんだろうか。
伊予親王に至っては後に無罪となって追贈され、
863年に神泉苑御霊会が催された際には早良親王らと共に鎮魂されているので
死後に怨霊となって宮中で恐れられたようです。
今では上御霊神社で祭られています。
藤原薬子は平安時代最大の悪女とまで言われているけども。
変の首謀者の一人、薬子の兄・藤原仲成も専横な振る舞いが多くて憎まれていたとか。
後の人々が正史を作るわけなので
蘇我氏同様、薬子の変も再検討が必要なんだろうなぁ。
藤原仲成は863年に神泉苑御霊会で祭られた「観察使」であるとも言われるので
興味深いです。

本尊の不空羂索観音は春日明神の一柱・武甕槌神の本地仏。
特別拝観で見れたみたいです。
自分は結局南円堂・北円堂の特別拝観に参加しなかったのですが
やっぱり見ておけばよかったなぁ…
後悔するくらいなら見ておけよと。
この後、40キロくらい走ったり、明るいうちに着きたいしとか
完全にこの旅行での出費に足が出てるし、とか
うだうだ考える前に行けばよかった。

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[ 2014年01月11日 10:46 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】興福寺中金堂

般若寺を後にして、奈良公園へ。
東大寺や春日大社を遥拝。
参拝すると目的地に着けるかわからないので…
奈良公園は思ったより広いので興福寺を探すのに迷ってしまった…
大通りは交通量も多いので、避けたり何なりうろうろするうちに
1時間くらいかかっちゃった…

11:10 興福寺到着

五重塔と東金堂でお参り。
興福寺にお参りするのは4度目かな。
お参りを済ませ、売店へ。
創建1300年記念ご朱印帳2種と売店が記念で1000冊限定で作ったご朱印帳、
計三冊を購入。
1冊ずつ、1ページ目にご朱印を頂きます。
まずは再建途中の中金堂へ。
ご朱印を頂く人で列が出来ています。
書き手も3人。さすが興福寺。

H25050204興福寺中金堂

■興福寺中金堂
創建:717年(伝)
宗派:法相宗
本尊:釈迦如来

興福寺は山号なし。
奈良の古刹には山号なしの寺院がちらほらあります。
創建は藤原不比等。
興福寺は藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、
藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇りました。
中世以降強大な勢力を持った「南都北嶺」とは南都は興福寺、北嶺は延暦寺を表わします。
強訴の際には春日大社の神木の「神威」をかざしました。
なんだか教科書みたいw
寺院というと今では平和の象徴であったり、葬式の時くらいしか縁もありませんが、
江戸時代以前は武力を持った宗教組織という一面があり、
宝蔵院流槍術の祖・宝蔵院胤栄も興福寺の僧兵です。
鎌倉時代以降は各国、大名が支配しましたが、
大和国の守護を興福寺が務めたほどです。
戦国時代になると興福寺の勢力が衰退し、
筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭し、
筒井氏が大和を統一しますが、そんな筒井氏も大神神社の神官・大神氏の一族と言われています。
江戸時代には21000石の朱印を与えられ保護された興福寺ですが、
明治の廃仏毀釈でやはり大打撃を受け、
子院は廃止、寺領は没収され、塀が壊されて奈良公園の一部となってしまいました。
僧も皆、春日神社の神職となり、
五重塔に至っては売却されて燃やされる寸前でした。
非常に痛ましいですね。
江戸時代に既得権益を得た寺院へ庶民による反感が廃仏毀釈を促したとも言いますが
一部不満を持っていた神職や国学者が扇動したとも言われますね。

と、ざっと興福寺についてまとめたところで、
中金堂ですが、現在再建中です。
2018年に完成を目指しているそうです。
楽しみです。

DSC_6997.jpg

再建中なので写真は五重塔と東金堂。
左側に映っている礎石あたりに中金堂の回廊ができるのかな。
[ 2014年01月11日 09:43 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/2】般若寺

さて、東海道旅も最終日の5月2日です。
この日は大阪の知り合いの家に遊びに行って、
翌日帰る予定。
なので京都から大阪までのサイクリングがてら寺社巡り。

7時半にチェックアウトして駅前の手荷物預かり所で自転車を回収して出発。
ただ大阪の知人宅に向かうだけならば淀川沿いに大阪に出るのが楽なのですが、
以前にそのルートを走ったことがある。
ので、折角だし奈良経由で京都へ行ってみよう!
興福寺が1300年記念のご朱印帳を入手したいし。

京都駅から国道24号を南下して木津川沿いを走ります。
前に宇治まで自転車で走ったので途中までは同じ道。

09:30 木津川市入り。

約2時間、黙々と走りました。
交通量が多くてちょっとひやひや。。
距離的には25キロくらい。

10:03 奈良県入り。

木津川市の州見台というところを通って奈良県へ。
国道24号から途中で剃れてこっちのルートを使うと
東大寺の目の前に到着できるっていう便利な道。
とはいえ、県境は基本山や峠、川を越えることが多く
ここも「台」とつくように峠のようなつくりにはなっています。
そんなに激しい坂ではないけど、消耗しますw
県境を越えて坂道を下ると東大寺の屋根が見えてきます。
東大寺でかいんだなぁ…

そのままいっきに下ろうと思ったら「般若寺」の看板が見えたので
お参りに寄ってみよう。

10:16 般若寺到着。

京都駅から奈良まで、自分の足で3時間かからないですね。
40キロ弱と言ったところ。

H25050201般若寺

■法性山般若寺
創建:629年(伝)
宗派:真言律宗
本尊:文殊菩薩

コスモス寺とも呼ばれ、境内にはコスモスだけではなく多くの花が咲いています。
般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、
創立者についても諸説あって、正確なところは不明。
正史にない寺社って創造力を描き立てられますね。
寺伝では、
629年、高句麗の僧・慧灌の創建としており、
「上宮聖徳法王帝説」では
654年、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいわれています。
ただし、蘇我日向は九州の筑紫宰をしていたこともあり
筑紫般若寺の創建のことを指しているとも言われるため、
寺伝であった可能性も高いですね。
629年といったら舒明天皇が即位した年。
仏教伝来が538年or552年なので仏教が公式に伝えられてから
まだ1世紀経っていない黎明期ですね。
この時代は大陸から多くの文化人が来日し、
技術や学問が流入した頃なので
高句麗からの使者として、慧灌が来日したのかな。
625年、高句麗王の授けにより来日し、三論宗を伝え、勅命により元興寺に住した僧です。
この元興寺は、まだ飛鳥時代のことなので法興寺、つまり今の飛鳥寺のことかな。
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺、蘇我氏が大陸との他方向外交をしていた証ですね。
735年、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したとのことですが
裏付ける資料はないとのこと。
平安時代末期には既に廃寺寸前で、鎌倉時代に中興するも、
戦国時代には1490年に火災で焼失、
1567年、東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失し、
明治の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けて、第2次大戦が終わるまでは荒れ果て、
戦後に本堂などの整備がされて今に至るとのこと。

つまり創建から今に至るまで、史料が少ない寺院ということですw

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実際に境内は奈良の他の寺院に比べると少し寂しげ。
そこが逆にコスモスや野草を際立たせる感じもします。
参拝客も自分を含め数人しか居らず、静かでゆっくり参拝できました。
拝観料は300円だったかな。
本堂に入ることもでき、そこで200円払うと中の仏様も拝めます。
重文の秘仏・阿弥陀如来像の特別拝観期間だったようで
白鳳時代の貴重な仏像を間近で拝むことが出来ました。

この旅で個人的には一番好きな寺院です。
[ 2014年01月05日 20:54 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】白峯神宮

雨から逃げるように市内へ。
ついでに昼ごはんも、と思い今出川通を走る。
雨雲が追ってきている気すらする、陽は出ているのに。
京都御所と同志社大学を抜けて少し行くと神社発見。
白峯神宮でした。
そういえばまだお参りしたことがないのでお参りしよう。

H25050106白峯神宮

■白峯神宮
創建:1868年
祭神:崇徳天皇
   淳仁天皇

白峯神宮の社地は蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地のため、
摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、
現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、
サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多い神社です。
境内にはキャプテン翼の高橋陽一先生直筆のイラストが描かれた
サッカーボールが奉納されています。

祭神は崇徳天皇と淳仁天皇。
崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で崩御した人物。
配流された讃岐の地で五部大乗経の写経に専念し、
(自らの血で写経したとの逸話もありますが)
戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、
後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返されてしまい、
激怒した崇徳天皇は写本に
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込み
1164年8月26日、46歳で崩御したといわれています。
崩御後、慰霊のため讃岐にある陵墓近くに頓証寺が建立され、これが現在の白峯寺になったとされます。
白峯寺自体は円珍が860年に白峯大権現の神託を受けて千手観世音菩薩を霊木に刻みこの地に安置した寺院。
「白峯」の言葉は崇徳天皇が崩御する以前から讃岐にあったようですね。

その後の1176年、後白河や忠通に近い建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去、
翌年の1177年には、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、
社会の秩序が乱れ、社会不安に陥ると
「これは崇徳天皇の怨霊によるものである」という噂が流布するようになり、
1184年4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」を設置、
8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められます。
崇徳天皇の鎮魂の甲斐なく、貴族による政治は終わり、
身分が低いとされた武士による世になってしまったのは
偶然なのか、大魔縁の呪詛によるものなのかはわかりませんが。

平安時代が終わり、鎌倉時代に入ると武士の時代になり、
「怨霊」という概念も徐々に薄れていくわけです。
そりゃあ武士は貴族と違って、時として人を殺めることも仕事のひとつですから
いちいち人を殺めて怨霊にビビッていては仕事になりません。
それでも鎌倉時代では既に、崇徳天皇が最上位(?)の怨霊であるという認識があったようで
「太平記」でも大怨霊として描かれています。
天皇家を南北に分断することとなった大事件である南北朝の動乱すらも
崇徳天皇の怨霊の仕業だ、と考えていたようです。

時代が進んだ江戸時代末期になると、
1864年の700年式年祭の年前後には黒船来航からの
内憂外患、文治元年1864だけでも禁門の変、長州征討、四国艦隊下関砲撃事件が発生、のため、
孝明天皇は崇徳院京都御遷還幸を企図しますが天然痘による急死、
明治天皇は即位前日に白峯御陵に勅使を派遣し、白峯宮の鎮座祭を行いました。
1868年8月、明治天皇は孝明天皇の意思を継いで現在の地に社殿を造営し、
讃岐の白峯陵の影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建したのが白峯神社の由来です。
社殿の造営は戊辰戦争の最中で行われ、
崇徳天皇が幕府軍の味方をしないように建立したとも言われます。

共に祭られた淳仁天皇は奈良時代の天皇で、
病気であった光明皇太后に仕えるためとして退位した孝謙天皇の後に即位しましたが
孝謙天皇時代に起こった橘奈良麻呂の乱のように政争真っ只中の時代で
764年、恵美押勝の乱が勃発し、結果、廃位となり淡路国に配流され、
765年に崩御、称徳天皇(孝謙天皇)の意向により
長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていました。
死因も不明、恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こした際には既に関係を絶っていた淳仁天皇が
首謀者の一人として処罰され、死因不明の崩御という不遇、
何らかの謀略を感じますね。
淳仁天皇も崇徳天皇同様に怨霊として皇室を悩まし
772年、光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めたとされます。

廃帝とされた淳仁天皇でしたが、
1870年8月20日、弘文天皇・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られ、
1873年には、白峯神宮に合祀されました。

そんな二帝を祭る神社にお参りです。
長かった。書いておかないと忘れそうだけど
書いていてもきっと忘れる。

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白峯神宮は上記したような神社なので、
いつかちゃんと参拝しておきたかったのです。
すごくついでっぽい流れでしたが気にしない。
怨霊云々なんてなんのその、今やスポーツ関連の奉納や
お守りお札が多くて、
篤い崇敬を受けているなぁと思ったり。
「恐れ多い怨霊」よりも「身近な神さん」のほうが
庶民的で良いね。
彼らを怨霊として恐れたのは、彼らにやましい気持ちがある方々だけですし。
庶民にはスポーツ祈願で賑わって、荒魂から和魂に転じて頂きたいですな。

白峯神宮の境内にいたときは晴れていたのに
出た途端にまた雨雲が襲ってきた。
まぁ、狐の嫁入りだから良いのだけれど、
自転車をあまり濡らしたくない…
前日びしょ濡れで走っていておいて何言ってんだですがw

結局何も食べず終いだった…
市内をうろうろ36キロ。
昨日と違うホテルだったので自転車を置く場所がなく、
仕方がないので京都駅の東洞院通にある手荷物預かり所で
自転車を預かって頂く。
夕方に預けて翌朝すぐに出て行く旨を伝えたら
少し負けてくれた、ありがたやありがたや。


15時過ぎにチェックイン。
このホテルにも大浴場が無いので京都タワーホテルの下の銭湯に行こうか悩んだけど
今日はそれほど走っていないし…備え付けのシャワーを浴びてさっぱり。
駅前の居酒屋を数件梯子して就寝。

明日は大阪へ向かいます。
[ 2014年01月05日 18:20 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】金戒光明寺

聖護院に来たからには金戒光明寺にもお参り。

H25050106金戒光明寺

■紫雲山金戒光明寺
創建:1175年
宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来

通称「くろ谷さん」でお馴染みの金戒光明寺。
地名の「黒谷町」にちなんでらしいです。
浄土宗の大本山のひとつで、開基は法然。

金戒光明寺と言えば、当時、大河ドラマの「八重の桜」がやっていたので
今度京都に来たらお参りしようと思っていたところ。
江戸時代初期に城郭構造に改修されたため、
1862年、会津藩主松平容保が京都守護職に任じられた際にの本陣となりました。
京都の治安は京都所司代・京都町奉行が任されていましたが、
幕末になると尊皇攘夷派の過激志士が集い、治安の悪化が懸念されたため、
薩摩藩主の父・島津久光が主導した文久の改革の一環として設けられた新職です。
光久は斉彬の異母弟で、子の忠義を斉彬の養子とし、
斉彬の死後、若くして藩主となった忠義の実父として薩摩藩の中で影響力を獲得しました。
弱体化した幕府と迫り来る欧米列強への対応のために
朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する公武合体を推進しましたが
文久の改革は失敗に終わりました。

そんな京都守護職への就任に対して、
容保は会津藩の藩財政が貧窮状態を理由に、また家臣からの反対もあり
就任要請を断っていたが、
会津藩の家訓『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出され
断れなくなってしまいました。
朱子学に傾倒した保科正之の残した家訓に首を絞められる結果となりましたね。

京都守護職をトップに、京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、
見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下としましたが、
会津藩士と所司代・町奉行・見廻役だけでは手が廻らなくなったため、
守護職御預かりの非正規部隊として支配下に置いたのが新撰組でした。
島原の乱以降、大きな内乱もなく、
鎖国状態であったために海外との軋轢にも無縁であったため、
250年の太平の世を築いた江戸時代でしたが、
それゆえに、本来正規軍として戦う必要がある幕臣は公務員化し、
奨励していた武芸も実践的なものではなくなっていたために
尊皇攘夷派のテロリストへ対応しきれずに、
実践派の浪人集団に現場を当たらせるという体たらくです。
まぁ新撰組の母体となった多摩の浪人も、武田遺臣を八王子千人同心として組織し、
徳川家から庇護を受けたために徳川恩顧の精神が強かったために
剣術を磨き、将軍警護に馳せ参じたわけだから、
250年後に家康の撒いた種が開花したとも言えるのかな…

京都守護職は王政復古の大号令で摂関や将軍などの制度が廃止されたことに伴い、
6年で廃止されました。
京都守護職の本陣となった金戒光明寺には
鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士が弔われています。

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さて、上記で書いたとおり「城塞」として使われたため、
御影堂は小高い丘にあり、階段が多いですw
建勲神社同様、膝に来ます。。
御影堂は大きくて立派。
屋根の大きさに圧倒されます。
お参りを済ますと13時。
さすがに空腹が…
なんて思っていたら、晴れているのに小雨が降ってきた。
雨から逃げるべく金戒光明寺を離脱です。
[ 2014年01月04日 20:46 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/5/1】聖護院

去年のお参りが年を越してしまった…
さらに記憶が薄れつつある。。

玄武神社のお参りを済ませ、さすがに大腹が空いている。
結局朝から何も食べずに市内を自転車でぶらぶらですからね。
京都市内を観光するには自転車が一番だと思っていますが、
問題がひとつ。路駐に厳しいところです。
しかもスタンドを取り外してあるのでそこらへんにホイと置けませんし。
まぁ、クロスだのロードは地球ロックしないと怖いですからしませんが。。

と、お昼を食べる場所を探している間に
今出川通で鴨川を越えてしまった。
廬山寺探していたんだけどなぁ…
そうこううろうろしてたら京大薬科の辺りに来てしまい
学生が増えてきた。
きゃっきゃうふふしている若人を見ていると心が荒む年頃なので
彼らから逃げるように走り去ると急に通りがニッキ臭く。
聖護院八つ橋と本家西尾。
なるほど、八つ橋の有名店が向かい合っている。
ということは、その先にあるのは聖護院か、ということでお参り。

H25050105聖護院

■聖護院門跡
創建:1090年
宗派:本山修験宗
本尊:不動明王

本山修験宗総本山の寺院で古くは天台寺門宗に属した寺院。
開基は園城寺の僧・増誉で、1090年、白河上皇の熊野詣の案内役を務めた人物。
この功により増誉は初代の熊野三山検校に任じられ、役行者が創建したとされる常光寺を下賜されたことに始まる。
日本は当時、末法思想の影響、貴族による摂関政治の衰退、武士の台頭、既存仏教勢力の退廃などによって
熊野詣が流行していました。
末法思想は、釈迦の立教以来千年の時代を正法、次の千年を像法、
その後一万年を末法の三時に分けて、末法においては仏法が正しく行われなくなる、とする考え方で、
終末論的なものとは関係がないのですが、
そういった社会情勢も相俟って、貴族や民衆に不安を与えました。
そんな末法の世界では阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、阿弥陀仏信仰が流行しました。
その結果、称名念仏、南無阿弥陀仏を唱えること、を重視する鎌倉新仏教の
浄土宗や浄土真宗、時宗が民衆の間に広まることとなるわけです。

さて、そんな末法思想は貴族や有力者にも影響し、
極楽浄土を現実の世界に作り上げ、平等院のような大寺院を造営しました。
それとともに流行したのが「熊野詣」です。
熊野三山で祭る熊野権現は阿弥陀仏の垂迹である、とされ
熊野へお参りすることで、阿弥陀仏の徳が得られ、極楽浄土へ行けると考えたわけです。
ちなみに、熊野本宮大社の主祭神の家都御子神は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神は薬師如来、
熊野那智大社の熊野牟須美神は千手観音とされ、
三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、
那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。
ただし、熊野への道には紀路と伊勢路の二つがありましたが、
いずれも難路であったため参詣の道者を案内する先達が活躍したわけです。
院政期の白河から後鳥羽上皇までの約100年間には97回もの上皇法皇の御幸があり、
後白河天皇においては、住宅の近くに新熊野神社を勧請し、
そこの鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。

そのような時代背景で創建されたのが聖護院であったため
熊野との関係が強く、
1236年、熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したことにより、
熊野との結びつきを一層深めていき、
熊野三山検校の地位は園城寺が引き継いでいましたが、室町時代中期からは聖護院が務めるようになりました。
また、静恵法親王以後、代々法親王が入寺する宮門跡寺院としての地位を固め、天台宗内で重要な地位を占め、
それと共に、熊野の修験組織をまとめ上げ、
熊野三山検校として修験道の重要寺院としての位置づけを確固たるものとなりました。
その後、応仁の乱で焼失し、現在の場所に落ち着いたのは1676年のことです。

1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年には修験道廃止令が発布されたため、
天台寺門宗に所属することになりましたが、
1946年、修験宗を設立、本山修験宗の設立は1957年、して天台寺門宗から独立し
今に至ります。

江戸時代に修験道が本山派(天台宗)と当山派(真言宗)に別れたため、
吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する大峯奥駈道に行く場合、
熊野本宮から吉野に向かう順峯、逆に吉野から熊野に向かう逆峯といい、
順峯は天台宗系の聖護院(本山派)が、逆峯は真言宗系の醍醐寺三宝院(当山派)がそれぞれ主導しています。
順峯で行く場合は、始まりと終わりに聖護院へお参りするルールがあるそうです。
大峯奥駈道は行きたいけれど、自分は吉野からの逆峯を予定しているので
醍醐寺三宝院に行かないといけませんなぁ…
まぁ大峯奥駈道に行く予定が立ってませんがw

あと、聖護院といえば、八つ橋とかぶが有名ですね。

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というわけで聖護院へお参り。
参拝客は自分だけ。
書院の中には入らなかったので、てか入れたのかな…
客間のようなところでお参り。
ご朱印は不動明王の梵字「カーン」。
インパクトがありますね。
[ 2014年01月04日 18:22 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

C85お疲れ様でした。

イベントお疲れ様でした。
当サークルに来て下さった方々ありがとうございました。
実家に行ったり、初詣に行ったり、
飲んだり飲んだりとだらけている間にも日が過ぎてしまっておりました。

今更ながらイベントで思ったことがひとつ。
作品の値段設定が400円~700円と幅があるせいで
合計金額の提示やお釣りを出すのが遅くてすいませんでした。
当方、酷く計算が苦手です。。
vol.7は600円だったのですが、
「7」の数字に意識が持っていかれたせいか、「700円です」と言い間違えて
訂正したはいいものの、脳裏に残っていてお釣りを300円で返してしまう始末。
ちゃんと皆様がその場でご指摘して頂いたので、ミスはないと思いますが…
今年からは500円で収まるような内容にしていこう、と思いました。
反省です。

あと、vol.3「鎌倉」の在庫がもうなくなったようです。
とかいって部屋を漁れば1〆くらい出てくるかもしれませんが…
再販をかけようか悩み中。
vol.1とvol.2も再編成して総集編として、
東京として再販しよう、とも思っているのですが
作業がなかなか進みません。
日々飲んだ暮れているからいけないんですけども。

今年の目標はvol.1とvol.2の再編ですね。
鎌倉を足して総集編にする手もあるのですが
60ページフルカラーはちょっとお金が…お金が…
ぜぜこがねえんですよ、ぜぜこがぁ…
60ページだと中綴じホチキス本よりも無線綴じのほうが良さそうだし、
そうすると60ページだと16万円くらいかぁ…
どうしたものか、難しいなぁ。
[ 2014年01月04日 16:43 ] カテゴリ:イベント | TB(0) | CM(0)


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