ご朱印びよりっ

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【25/09/20】出雲大社先島本宮

三日目は西表島でマングローブとか滝を見に行きたかったけど
如何せん、大型台風が近づいていたせいで船が出ず。無念。
小浜島と竹富島への船は出ているというので
竹富島に行ってみました。
港からは観光バスが出ていて、島の真ん中ら辺にある牛車乗り場へ。
牛車でぐるっと島巡り。
赤レンガの屋根に石積みの垣根、珊瑚の白い砂の道という
古い沖縄の景観を残しているんだとか。
30分くらいで回り終わると自転車を借りて島巡り。

竹富島には日本日本最南端に位置する喜宝院という寺院があるので、勿論お参り。
喜宝院は浄土真宗の寺院でした。
念の為ご朱印をお願いできるか聞いてみたけどやっていないとのこと。
喜宝院は竹富島の民芸品・生活用品を展示する博物館ともなっていて
いろいろ貴重な文化財を見させていただきました。
文字がない時代の戸籍や冠婚葬祭のときの引き出物の管理のために
イグサのような植物の茎(なんの植物だったか忘れた…)を使っていたのに驚き。
出土した瓦やら土器、昔の貨幣やらいろいろ展示されています。

遠くに来たからにはちゃんと何か食べないと、と
この旅3度目の八重山そばを頂く。
昼は常に八重山そば食っているな…
竹富島は石垣とはまた少し違い、
島胡椒(ぴーやし)を振りかけて頂くのがいいらしい。
独特の風味がしますな。
ちなみに前の日に暴飲暴食しすぎて、この日はちょっとお腹の調子が悪かったけど
お腹は治るけど、ここを食いっぱぐれたら次にいつこれるか分からないので
胃腸を気にせず、食事をします。

沖縄で神様を拝む場所を「うたき(御嶽)」と呼ぶのですが
竹富島にも集落ごとに御嶽があるようです。
自分達も幾つかお参り。

12時になったので島から離脱。
石垣島に戻って再びドライブ。
石垣島には幾つか鍾乳洞があるというので
そう遠くない八重山鍾乳洞動植物園へ向かう。
ここがまぁ…しょぼいw
動物園というわりには既に手入れがされておらず
見かけた動物は烏と鳩くらいですよw
あとは鴨。
植物はそれなりに南国然としていて見る分には悪くないけど
森の中は湿度が高くて汗だくに。
島自体は雨が降ったり止んだりでしたが、風が通るため
(台風が来ていたのもあったけど
比較的からっとしていて軽く汗ばむ程度だったのだけれど
ここは湿度が酷かったなぁ。。

鍾乳洞を見終わったけど時間にまだ余裕があったので
お願いして神社に連れて行ってもらうことに。
宮良地区に出雲大社宮雲殿という神社を事前にチェック済みだったので
行ってみたけどそれらしいものはなく…
気を取り直して白保地区の出雲大社先島本宮へ向かいます。
向かったはいいものの、グーグルマップと所在地がどうも一致しないw
概ね当たってはいるんだけど…
と、車でうろうろしながらなんとか到着。

15:54 出雲大社先島本宮到着

H25092101石垣島出雲大社

■出雲大社先島本宮
創建:不明
祭神:大国主命(推定)

なぜここに出雲大社があるのかは一切分かりません。
由来書きもないし、祭神も出雲大社だからおそらく、です。
調べてみたけど、そもそもこの神社をお参りした人の記事があまりありませんw
「明和の大津波」の際に分社されてきたというので
1771年4月24日の八重山地震よりは後の創建ということかな。
ともあれ、ここが日本最南・西端だと思っていたのですが
与那国島にある十山神社という与那国の御嶽の総本山的な神社で
ご朱印が頂ける、という噂…
実物の画像を見ていないのでなんともわかりません。
いつか与那国島や宮古島にもいってみたいなぁ。

DSC_1133.jpg

真白な鳥居をくぐって境内へ。
境内には珊瑚を使った灯篭がありました。
さすがに他所では見たことがないなぁ。
お参りに来たけど拝殿は閉まっているので
ここも誰もいないのかなぁとちょっと拝殿をうろうろしてたら
裏手の扉に靴が並べてあったので
どうやら宮司さんがいるのかな?と声を掛けてみる。
5回くらい声を掛けたら奥から宮司さんが出てきました。
ご朱印をやっているのか伺うと、どうやら書いてくれるらしい。
待つこと15分…ご朱印を頂きました。
琉球の暦を調べていたら時間が掛かってしまった、とのこと。
玉串料は500円でした。

レンタカーを返却してホテルへチェックイン。
この日の晩御飯もお魚。
さすがに三日目になると観光旅行も疲れるな…
胃腸の調子もいまいちだったので軽く飲んでホテルに戻って就寝。

最終日は一番の便で那覇に戻って首里城観光。
首里城は、なんかイメージとは違った…
14時には東京への便に乗るので那覇観光は半日だけ。
沖縄旅行といいながら、那覇は首里城のみの観光でした。
那覇にはいくつかご朱印を頂ける寺社があるので
またゆっくり観光したいなぁ。

帰りの飛行機は窓際だったので景色も愉しめました。
空から見る富士山もいいものだなぁ。

と、こんな感じで2013年の夏休みは石垣島旅行を堪能しました。
また行きたいなぁ。
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[ 2014年02月28日 20:36 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/09/19】桃林寺

流山散策後はC84やら仕事やらと忙しかったり、
土日は暑くてどこかへロングライドしようなんていう気分にはなれず、
8月末に桶川まで走って往復100キロ近く走りましたが
運悪く、桶川ではご朱印に巡り会えず。

そんなこの年の夏休みは9月18日~21日の連休に少しあわせて沖縄の石垣島へ行っていました。
友人を二人誘って久々に一人旅じゃないやつです。
大型台風がスタンバイしていましたが。
雨男能力発揮デスヨ。

まぁなんだかんだで台風もぎりぎり直撃は免れましたが。
飛行機に乗るのも高校の修学旅行以来なので10年以上ぶり。
羽田発の8時の便に乗って12時過ぎに石垣島到着。

1日目は石垣島周辺をドライブ。
昼飯に明石食堂で八重山そばを喰いに行ったら長蛇の列で
1時間くらい待たされたけど、それはそれで仕方なし。
そのまま逆時計回りに島を巡って、
ヒルギ群落でちょっと水遊び。
海に足をつけること自体久しぶり。
3年位前に急にオンリーイベントに参加したくなくなって知り合いに愚痴っていたら
サボって海行こうぜ!と誘われて九十九里に行って以来くらい。
南の海は綺麗で良いなぁ…
米原のヤエヤマヤシ群落で緑色の甲虫が葉っぱの裏に密集してるのを見て
うっわあ!となったり、
サトウキビ絞りを飲んだり、
木の葉の形のコノハチョウに興奮したり。
川平湾は風が強くてちょっと雲が出てきて残念でしたが
それでも充分見ごたえがあって綺麗。
そのまま底地ビーチのホテルにチェックイン。
夕日が綺麗なビーチという話だったけど、
ちょっと曇っちゃって…
でも綺麗、見ていて飽きないので晩御飯までずっとベランダでだらっとしてました。
晩御飯はBBQスタイルで食べ放題飲み放題。
まぁそこで食べる以外なにもないんだけれども。
オリオンビールと泡盛飲んだくれて
夜のビーチではしゃいだりして1日目は終了。

2日目はホテルのやってるマリンアクティビティでシュノーケリングを。
見ました?アクティビティにシュノーケリングですってwwwww
前の日に予約をしたときに、
台風接近中なので波が高い場合は中止といわれたけど
ぎりぎり実施可能とのことでした。
とわいえ、
海で泳ぐのなんて20年ぶり以上ですよ。
幼少期に夏の新潟の海で半身浴びた程度ですよ。
かといって、
プールで泳ぐのだって中3以来ですよ。
高校のときは体育の授業でも泳がなかったし。
女子かよ…
なもんで海に入るのに緊張していたのにシュノーケリングですよ。
最初に泳ぎ方や道具の使い方を習って
いざボートで沖のポイントまで行って、レッツシュノーケリングっ!
やべえ、たのしい、はしゃいじゃった。
海中も綺麗。カメラでパシャパシャ。
9時から2時間くらいのシュノーケリングでしたが
充分堪能。
というか体力的に2時間が限界w
ウェアを着ているといっても2時間海中で泳いでいるわけだし。

陸に上がって身体と水着を乾かしつつ休憩。
12時過ぎにチェックアウトして市内までドライブ。
名蔵湾はちょっとごつごつしてて雰囲気が違う。
地元の漁師さんに釣れた魚を見せてもらったり、
足元にいた大量の小さいヤドカリを踏みそうになって焦ったり。
石垣港までドライブして遅い昼ごはん。
やっぱり八重山そばとヘチマチャンプル。
近くに寺院があるのをチェック済みなのでお寺にお参りする事に。

14:20 桃林寺到着

H25092001桃林禅寺

■南海山桃林寺
創建:1611年
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:観音菩薩

1611年、鑑翁西堂の開山により創建された寺院です。
沖縄に侵攻してきた薩摩藩が、琉球国王に寺院建築を進言したのが創建のきっかけで、
八重山地方で初めての寺院だそうです。
日本では最南端且つ最西端のご朱印が頂ける寺院ではないかと思います。

DSC_0169.jpg

沖縄らしい赤レンガの屋根に石垣に囲われた寺院です。
山門はちょうどこのとき修復中だったようで
境内には作業員がちらほら。
参拝客は自分達だけでした。
本堂でお参りして、寺務所でご朱印をお願い。
自分たちがお参りしたタイミングでちょうど住職と思わしき人物が
車で出掛けていったのを見たので
もしかしたら頂けないかも、と思いましたが無事頂けました。

お参りを済ませて近くの「十五番地」でソーセージをお土産に買って
港の近くのタイ式マッサージで癒される。。
なんか、こういうのええやん。
マッサージ終わったら各々好きなようにお土産屋を巡るフリータイムを経てチェックイン。
夕飯は美味い近海マグロがリーズナブルな価格で頂ける「ひとし」を予約していたので
近海マグロを喰らい尽くしました。
他の魚も肉も美味い。
オリオンビールと泡盛で胃に流し込む感じも堪らない。

近海マグロを堪能した後、酔った勢いで
夜の美崎センター通りに向かい、
ホテルに戻る頃には2時過ぎていました…

そんな石垣島旅行は続きます。
ご朱印を紹介するサイトなので写真は特にupしませんが、
もう少し沖縄地方のご朱印が集まったら
同人誌を出したいとは思います。。
[ 2014年02月25日 23:37 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/13】光明院

流山に隣接し、歩いて50mくらいの距離にある光明院も新撰組ゆかりの寺院。
新選組の主力200名が分泊した寺院です。
勿論お参りします。

H25071302光明院

■赤城山光明院
創建:不明
宗派:真言宗豊山派
本尊:不動尊

創建は不明ですが江戸時代初期には既に存在していたようです。
光明院のとなりには赤城神社があり、
山号からも解るとおり、明治時代までは赤城神社の別当でした。
赤城神社は江戸川の左岸の平坦な土地に盛り上がった海抜約15メートル、
周囲350メートル余りの小山の上に鎮座しており、
この小山は洪水の際、群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきて
ここに流れ着いたものという伝承があります。
この赤城山から流れてきた伝承から「流山」の地名の由来ともなっています。
赤城神社の創建は鎌倉時代とも言われているため、
別当の光明院もそこくらいまで遡れるかもしれません。
赤城山を信奉する上毛野氏の一族がこの辺りに移り住んだのかなぁ。

DSC_8818.jpg

お参りに行ったときにはちょうど庭師が植木の手入れをしていたようで
邪魔にならないようにこそこそ参拝。。
檀家寺のようですがしっかり境内の手入れが行き届いていて、
裏には赤城神社の鎮守の杜もあるので雰囲気もいいです。
境内にはポンプ式の井戸があってどこか懐かしい感じです。
本堂でお参りをして社務所を伺うと住職は東京へ法事(だったかな)とのこと。
ご朱印をお願いすると書置きなら、とおっしゃるのでお願いすると
書置きというかコピーでした…
そういう時もあります。

流山をそのあと少しうろうろして実家へ帰宅。
結局往復で60キロ。
炎天下で60キロ走るとさすがに消耗しました。
冬と夏の自転車は過酷です…
[ 2014年02月25日 22:07 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/13】流山寺

この日もC84用の原稿をしつつ、
流山方面の新撰組の史跡を見に行こうと思い
自宅から自転車でひとっ走り。
ひとっ走りといいつつ20キロ近くあるので良い運動です。
しかも7月。特に走らなくても汗だくになるのに…
そんなわけで家事やら済ませて8時に出発。
荒川を越えてつくばエクスプレスに沿うよいに北上。
そして滝のような汗。
こういうときはコンビニで売っている凍らせたスポーツドリンク500mのやつが便利です。
水分と涼を取らないと死んでしまいます。。
家を出ること2時間半、流山寺到着。
20キロなのに2時間半とかwww
なんかまっすぐ走ってるはずなんだけど結構道を間違えることが多いのです。
川を越えるときに橋がないと大回りしないといけませんし…
と、くどくどと言い訳。
あと、コンビニに2回入ったw

10:45 流山寺到着

H25071301流山寺

■洞雲山流山寺
創建:江戸時代初期
宗派:曹洞宗
本尊:薬師如来

江戸時代初期に創建された曹洞宗の寺院。
時期や開基に関する資料はちょっとみつからないなぁ。
曹洞宗だからご朱印は釈迦牟尼仏かと思ったら薬師如来です。
ちょっと珍しいですね。
流山七福神の大黒天もお祭りしています。
1965年に再建されたため、本堂はコンクリート仕様です。

1868年4月2日、新撰組は戊辰戦争の中で下総流山に陣を敷きますが、
そのときに新撰組が分泊したゆかりの寺院でもあります。
4月3日には近藤勇は新政府軍に包囲され投降してしまいますが、
旧幕府軍および新撰組の戦いはまだまだ続きました。
流山駅前には近藤勇陣屋跡もありますが
ご朱印が頂けるような場所ではないのでスルーしてしまった。。
暑いのがいけないんですよ。

DSC_8813.jpg

境内ではなにやら作業員さんたちが数人いて、
ちょっとお参りしづらい…
参拝客以外が境内に沢山いるとちょっと躊躇ってしまいますね。
写真撮影とかもなるべく入り込まないように気を使いたいし。
本堂でお参りしたら本堂に燕の巣が。
あまり大きな寺院じゃないので(失礼)ご朱印やってないかもなーと思ったけど
ちゃんとやってました。

そんな感じでもう少し流山をうろうろします。
[ 2014年02月23日 22:24 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】車折神社

梅宮大社をお参りし、猫と戯れて満足したので次の目的地へ。
というほど目的地もないんですが…
このまま嵐山まで走って周辺散策をしようかとも思ったけど
ちょっと天気が曇りだしてきたし
日帰りだしなぁ…
まだお参りしていない車折神社が北へ1キロくらいのところにあるので
ちょっと行ってみることに。

12:55 車折神社到着

H25070602車折神社

■車折神社
創建:1189年頃
祭神:清原頼業公

祭神は清原頼業で、頼業が1189年に亡くなると、
清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられ、
後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立されたことが始まり。
宝寿院は後に天竜寺の末寺になりました。
清原頼業は平安末期の儒学者。
藤原頼長・九条兼実などにその実務と学識を認められ、
高く才能を評価されていたそうです。
清原氏なので天武天皇の皇子である舎人親王の子孫ですね。

「車折」の由来は、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、
後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、
不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、
還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためとも言われているそうです(wiki
社名の由来だというのにどうもはっきりしませんね。

境内には芸能神社という天宇受売命と祭る神社もあり
芸能人が多くお参りに来るそうです。
よくテレビでもやってますね。

DSC_8776.jpg

テレビで映る回数も多いからか、それなりに参拝客がいましたが
中心からも嵐山からもちょっと離れているので
混雑というほどではなかったです。
拝殿のところでは中国人(?)のお姉さんが必死に自撮していました。
海外でも有名なのかな。

結局この日は車折神社を最後に駅まで戻って自転車を返却。
東京に帰ってからいつもの店で飲んだくれ。
これで新撰組に関する史跡も充実したかな。
1冊の本を出すのに会津と京都まで日帰り旅行してしまったので
印刷して仮に完売しても完全なる赤字です。
しかも完売してないし…orz
みんな新撰組は好きじゃないのかな;;
[ 2014年02月22日 17:59 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】梅宮大社

二条城周辺をぶらっとして、さてどこ行こう…
二条通、三条通、四条通とちょっとずつスライドしながら西に走って
嵐山辺りまで行こうかなと思って走ってみたけど
やっぱり慣れない自転車だと疲れるのと速度も出ない。
どこかのパーツの噛みあわせが悪いのか、
ずっとカラカラ音がするし。故障じゃないんだろうけど。
途中で梅宮大社を発見して参拝。

13:33 梅宮大社到着

H25070601梅宮神社

■梅宮大社
創建:天平年間(729年-749年)
祭神:
本殿 酒解神 酒解子神 大若子神 小若子神
相殿 嵯峨天皇 橘清友 橘嘉智子 仁明天皇

酒造の神、子授け・安産の神として信仰されている神社。
県犬養三千代により橘氏一門の氏神として山城国相楽郡に創建されたのに始まります。
三千代は別名・橘三千代で奈良時代前期の女官。
県犬養氏は屯倉などの守衛に当たる犬養部を統率した伴造4氏族の一つで
大和朝廷の直轄領である屯倉の守衛・管理を職としたため朝廷直轄地を意味する県を犬養に冠したとのこと。
三千代は天武天皇から元正天皇までの五朝に歴任し、
元明天皇から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、
橘氏の実質上の祖となりました。
しかしこの時代に、女性で賜姓されて祖になるのは珍しい。
三千代は敏達天皇系皇親である美努王と結婚して、
橘諸兄、橘佐為、牟漏女王らを生みました。
橘諸兄が初代橘氏長者で聖武天皇を補佐をした人物で、
右大臣、左大臣、正一位と出世しましたが、
聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され失脚しました。
牟漏女王は藤原不比等の次男・藤原房前に嫁ぎました。
三千代は美努王とは離別した後、藤原不比等の後妻となり、
光明子を生みました。
光明子は聖武天皇と結婚した光明皇后です。
こうみると橘氏だけではなく、天皇家や藤原氏とも関係の深い神社です。

本殿の祭神である酒解神は大山祇神の別名で、初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神。
酒の神と言うと奈良県桜井市の大神神社が酒造りの神様としては有名ですが
梅宮大社も酒の神で有名らしい。
境内には奉納された酒樽も積まれていました。
酒解子神は木花咲耶姫命の別名で酒解神の御子神。
大山祇神と木花咲耶姫命に親子関係が有るからかな。
江戸時代後期以降の後付じゃないかと勝手に推測。
大若子神は瓊々杵尊と同一視され、酒解子神の夫で
小若子神は彦火火出見尊と言われ、酒解子神と大若子神の子供。
別名のほうは神話の通りの人間関係ですが、
自分はこの「酒解神」は太秦の神「大酒明神」だったのではないかと推測。
ちなみに秦氏が記紀に初めて登場したときの人物の名前は秦酒公で、
雄略天皇15(471)年、日本各地に分散していた秦氏の部民を
統括することを雄略天皇から許され、「禹豆麻佐」姓を賜った人物です。
秦氏の祖とも言える人物ですね。
梅宮大社は平安京遷都と共にこの地に鎮座したとされますが
この地は秦氏の本拠地である蜂岡からも程近い場所のため、
元は秦氏の土地で、その土地の一部を橘氏が譲り受けて遷座したとすると、
本殿の酒解神親子は秦氏系、大若子神親子が橘氏系として祭ったんじゃないかと想像できます。
国学が盛んになると、正体不明の神様には
記紀に載っている神と同一視していく作業が行われたのではないだろうか。
根拠はないですがw
橘氏と秦氏に明確な関係性が見つかればもっと考察が先に進みそう。

相殿は平安時代以降の橘氏と血縁関係にあった天皇を祭ります。
嵯峨天皇の皇后が橘嘉智子で、その子供が仁明天皇。
橘嘉智子の父が橘清友です、
本殿の神と対を成すような関係ですね。

酒解神-大山祇神-橘清友
酒解子神-木花咲耶姫命-橘嘉智子
大若子神-瓊々杵尊-嵯峨天皇
小若子神-彦火火出見尊-仁明天皇

と系図をトレースできるようになっています。
意図的にこうしてるんだとは思いますが…
橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后で、別名・檀林皇后、梅宮大社をこの地へ鎮座した人物であり
橘氏出身としては最初で最後の皇后でもあります。
仏教に篤く帰依し、嵯峨野に日本最初の禅院・檀林寺を創建したことから
檀林皇后と呼ばれたとのことです。
檀林寺はその後、廃寺となり、その地には天竜寺が建てられました。
嵯峨天皇の説明は割愛しますが、
死刑を廃止した天皇ですね。
別に人権がうんたら、慈悲深い云々というわけではなく
死に依る穢れを恐れたからではないかと思います。
逮捕・捕縛してからの死刑はなくなりましたが
逮捕途中で殺してしまうケースは黙認されていたので
アメリカの死刑を廃止している州と似たような感じですね。
ともあれ、嵯峨天皇の時代から表面上は安定した「平安」な時代が始まったともいえますね。

ちなみに、橘嘉智子が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだことから、
子授け・安産の神としても信仰されるようになりました。

別当寺は橘氏の氏寺である井手寺で今は廃寺になっています。
621年、山背大兄王の本願により建立され、
731年、橘諸兄により上井手大地南端に、母・橘三千代の一周忌に因み
橘氏の氏寺として再建されたといわれています。
場所は京都府綴喜郡井手町にあったそうなので京都に遷座する前は
梅宮大社もここ周辺にあったのではないだろうか。
その地のすぐ近くには諸兄の墓もあります。

DSC_8718.jpg

結局お昼ごはんを食べていないけど神社へお参り。
境内を散策し拝殿でお参り。
ご朱印をお願いすると、どうやら神事をしていたようで
少し時間がかかるとのこと。
社務所近くをうろうろしていると神社の飼い猫だろうか、
数匹がうろうろしていたので可愛がる。
呼び寄せてちゃんと来る猫は良い猫だ。
逃げる猫は残念だ。
自分になついていたというよりは、
地面に置いた自分のリュックになついていた…
シャッターチャンスが上手く作れず、無念。
[ 2014年02月15日 14:49 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】神泉苑

新撰組の史跡廻りを目的に京都に来たものの
思ったよりチェックした場所を回れてしまったので
どうしたものか、途方に暮れる。
こういうときに一人でふらっと遊びに行りますね。
京都市内はいろいろもう回っているし…
と、思っていてもまだまだ全然行っていない場所が多いです。

千本通を当て所なく北上していたら
二条まで来てしまった。
そういえば二条城ってまだ入ったことないなぁ…
要予約なのでこの日も勿論入れませんが、ちょっと外観でもとぶらり。
途中で「神泉苑」の看板が見えたので寄り道。

11:45 神泉苑到着

H25070602神泉苑

■神泉苑
創建:824年
宗派:東寺真言宗
本尊:聖観音 不動明王 弘法大師

神泉苑は、元は平安京大内裏に接して造営された天皇のための庭園でした。
794年、平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑でした。
当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、
東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園でした。
当時の平安京の御所は、今の京都御所より西側にあり
今の千本通あたりが昔の朱雀大路と思われます。
そうするとなぜ南西に東寺があるの?という疑問にも解りやすいですね。
今の東寺はまさに東側に、対になるように西寺があり、そこの中心が朱雀大路です。
西寺はもう跡地が残るだけで、今は公園となっていますが。
平安時代の内裏の位置は北は一条通までで
北東の隅に晴明神社、北西の隅に大将軍八神社、
南東の隅に神泉苑、南西の隅が朱雀第四小学校の辺りになるのかな。
まぁざっくりですが。

神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、
824年に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、
空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったといわれています。
善女龍王は雨乞いの対象である龍王のうちの一尊で、
法華経・提婆達多品に現れる八大竜王の一尊、沙掲羅龍王の三女です。
清瀧権現と同一視されます。
さんずいを取ると「青龍」となります。
水神であり日本では滝を神格化した際に同一視されている場合が多いようですね。
本地仏は准胝観音と如意輪観音。
清瀧権現を祭る有名な寺院として醍醐寺がありまが、
醍醐寺にはまだお参りをしていないのでそのときに調べてみよう。メモメモ
高雄山神護寺も清瀧権現を祭る寺院です。
神護寺は和気氏の私寺で、前進の神願寺は和気清麻呂が創建です。
清麻呂の名前にも「清」が入っていますね。
神護寺もまだお参りしていないのでいずれ。
どちらも京都市内ですが、山奥にあるのでなかなか気合を入れないとお参りできません。

863年、都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われましたが
その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。
869年には、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、
その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるといい、
66本の矛を立てた場所が神泉苑の南端、三条黒門通りにある八坂御供社、であったそうです。

DSC_8688.jpg

神泉苑に着いたら母娘の親子が池の近くで散歩をしていて
微笑ましい光景でした。
池の上に善女竜王社が建っているのでまずはお参り。
善女竜王社の右手側に「歳徳神」を祀る祠があり、
毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変えるそうです。
歳徳神は、陰陽道でその年の福徳を司る神で、
牛頭天王の妻であり娑竭羅龍王の娘、頗梨采女と同一視されています。
さてこの「頗梨采女」は娑竭羅龍王の三女ともいわれ、
とすると頗梨采女=善女竜王=歳徳神ということとなります。
牛頭天王と頗梨采女夫婦は素戔嗚尊と櫛稲田姫と習合されています。
八坂神社の祭神と神泉苑の祭神が夫婦というわけですね。

本堂をお参りして、方丈でご朱印をお願いして池の周りをうろうろ。
思ったより大きな池だなぁ
池には結婚式場が併設されていて
池には龍王船が浮かんで、なかなか豪勢です。

さて、お昼も近いのでどこかで何かを食べようか…
と、自転車に戻ります。

[ 2014年02月12日 22:25 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/07/06】光縁寺

C84の新刊の原稿をしつつ、色々調べていたら
ご朱印に「新撰組」と入るものがあるというので
こりゃあやっぱり掲載したいなぁ、と居ても立っても居られず、
始発で京都に行ってしまいました。。。
こういうことをしているからお金が貯まらないんだと思います。
旅行は計画的に!

7月なんて、いっそのこと祇園祭に行きたかったなぁ…
祇園祭の時期はコミケも近いことがさることながら、
職場の忙しさがピークで旅に行く元気がありません。
ましてや有給なんて使えない…

そんな事情はおいといて、
始発の新幹線に乗れば、9時すぎには京都に到着します。

京都市内を観光するときは自転車が便利です。
京都駅西洞院口からビックカメラの前を通って進むと
「KCTP京都駅サイクルターミナル」さんがあります。
輪行しないときはこちらで自転車を利用することが多いです。
自転車も普通のママチャリからマウンテンバイク、ミニベロにあり
1日借りても2000円なので、
市内を回るには非常にありがたい。
マウンテンバイクを借りていざ出発。

レンタサイクルのすぐ裏、アパホテル京都堀川通の横には
不動堂明王院があります。
古くは真言宗の密教寺院でしたが、現在は浄土宗西山派となっています。
823年、空海が都南に東寺を賜った時、東寺よりみて鬼門にあたる地に
一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしています。
空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、
その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したといわれています。
その石が本尊であり、霊石不動と称される不動明王像で、
地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっています。
さて、この不動堂は新撰組と縁がある寺院。
1867年6月15日(旧)、新撰組は西本願寺屯所から
この不動堂のある不動堂村に屯所を移転することになりました。
しかしこの半年後の1868年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発したため
不動堂村の屯所は半年しか使われず
今は詳しい史料も残っていないそうです。
と、まずは不動堂をお参り。
ご朱印はなかったようです。

不動堂明王院から油小路をそのまま北へ100mほど進んだところにあるのが本光寺。
実相院本光寺は日蓮宗の寺院。
一般公開されている寺院ではないようだったので外観だけ。
ご朱印もないんじゃないだろうか、日蓮宗だし。
この寺院も新撰組と縁のある寺院。
1867年11月18日(旧)に油小路事件が起こった場所です。
油小路事件は新選組と御陵衛士(高台寺党)の抗争事件。
御陵衛士(高台寺党)は1867年3月10日(旧)に伊東甲子太郎が新撰組を脱退して結党した組織で、
孝明天皇の陵を守るという名目だったため「御陵衛士」。
高台寺塔頭の月真院を屯所としたために、別名「高台寺党」とも呼ばれました。
伊東は藤堂平助の仲介で1864年10月に入隊し、参謀を務めた人物で、
北辰一刀流剣術の使い手で、また水戸学を学んで勤王思想に傾倒していました。
新撰組の中で同じ攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組は佐幕派で、伊藤は勤王(倒幕)を説こうとする方針を巡って確執があったようです。
ただ御陵衛士結党による新撰組からの離脱理由は、
泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、
それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事でした。
同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、
毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、
中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。

1867年11月18日(旧)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受け、
帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されました。
伊東を接待し酒に酔わしたのは、伊東が北辰一刀流の使い手であったために
警戒をしたからだといわれています。
芹沢鴨を暗殺したときも酒に酔わせていますね。
志士は迂闊に酒に酔えない時代でした…
伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われ、
後に収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新選組と戦闘となり、
藤堂・服部・毛内が死亡しました。
残った同士は薩摩藩邸に逃亡し、これにより御陵衛士は解散しました。
伊東らの遺体は光縁寺の埋葬された後、
1868年3月13日、御陵衛士の残党によって泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されました。

ちなみに御陵衛士の生き残りは赤報隊二番隊として、
隊長を鈴木三樹三郎、御陵衛士が中心となって活動しました。
また、この事件の報復として近藤は
1867年12月18日に篠原、加納ら御陵衛士の残党に伏見街道で襲撃されて
鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができなくなりました。
近藤はさらに、1868年4月、流山で幕府軍を募集した際に政府軍に包囲されて出頭、
大久保大和と正体を偽っていたが政府軍として従軍していた加納によって看破され、
捕縛されて処刑に至ります。
なんとも因果な話です。

そんな油小路事件の舞台、の近くにあった本光寺を後にして、
次なる新撰組スポットへ。
堀川通に出て200mも走れば西本願寺に到着します。
龍谷山本願寺は浄土真宗本願寺派の寺院、通称「西本願寺」。
真宗大谷派の真宗本廟、通称「東本願寺」と区別するために
西本願寺と呼ばれることが多いですね。
浄土真宗ではご朱印をやっていない寺院がほとんどなので
勿論西本願寺にもご朱印はありませんが
記念スタンプは3種類ほどあります。
専用の用紙に一応押しましたが、
スタンプ台近くで子供たちがはしゃいでいて、
そこを割ってスタンプを押しに行く勇気がなく、
子供(とその親)の集団が移動するまでしばしの休憩。

西本願寺の歴史は割愛して。
1864年6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛したことによって
新選組の名は一躍天下に轟くこととなります。
8月には禁門の変の鎮圧に参加し、働きが評価され、
朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されました。
9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させ、
新選組は200名を超す集団へと成長しました。
人数が増加したことに伴い、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転し、
約2年ほど、新撰組の屯所として利用されることとなりました。
集会所は現在の総合庁舎と参拝会館の辺りにあったそうです。

新撰組が西本願寺に移ってきたことで
西本願寺の僧侶は大層迷惑したそうです。
境内で武芸鍛錬するだけでなく、スタミナをつけるために獣肉を食し、
200人からの大人が生活するのですから多くの残飯も出ます。
その残飯の処理をさせるために境内で豚を飼い、またそれを食す。
さらには境内で捕縛した志士の拷問や
規律を破った隊士の粛清もするのです。
そんな新撰組との共同生活に嫌気が差した本願寺は
全額負担で不動堂村に新しい屯所を作ったわけですから
どれほど本願寺側が頭を悩ましたか解りますね。

本願寺の寺務所では冷たいお茶をサービスして頂けるので
喉の渇きを潤せました。
7月の京都は暑い。

西本願寺をお参りして次の寺院へ向かいます。
堀川通をそのまま北上して四条通で左折すると
嵐山本線の四条大宮駅に着きます。
綾小路通に入ると目的の光縁寺が見えてきました。

10:50 光縁寺到着

H25070601光縁寺

■満月山普照院光縁寺
創建:1613年頃
宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来

浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。
こちらも新撰組と縁の深い寺院です。
光縁寺は新撰組が屯所とした壬生寺や前川邸から徒歩5分と近く、
門前近くには新撰組の馬小屋があり、毎日門前を隊士たちが往来していたそうです。
また、この寺と山南啓介の紋所が同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であったことから
山南と当時の住職良誉上人との交際が始まり、
亡くなった隊士の埋葬を依頼したのではないかと言われています。
過去帳には、隊士のほか新選組に縁のある人を含めて28人の記載があり、
墓地には四基の墓が現存しています。
墓地は史跡でもありますが、現役の墓所でもあるため、
静かに参拝するように注意書きが。
とはいえ、この日は自分しか参拝客は居ませんでした。
拝観料ではないですが、維持費として100円を納めてお参り。
ご朱印をお願いして墓地へ。
新撰組隊士の眠る合同墓地に手を合わせました。
おお、本当に「新撰組」って入ってる。かっこいい・・・

DSC_8583.jpg

光縁寺を後にして前川邸と八木邸を外から見物。
そういえばちょっと前に八木邸で所得隠しがあったなぁ…なんて思いつつ。
やっぱり新撰組は儲かるんですねw
すぐ近くには壬生寺もありますが、
何度かお参りしているので門前から遥拝だけ。
正面の新徳寺も新撰組所縁の寺院ですが、
やはりここも「史跡」として公開している寺院ではないようです。

折角なので新撰組も夜な夜な遊びに行ったという島原へ行ってみました。
山陰本線丹波口駅東側の辺りが当時の花街だった島原。
昔、小さい頃に家族旅行でこの界隈を見た記憶がありますが
京の街の風情が残っているとはいえ、
子供を元・花街に連れて行く父親とは如何なものだろうか。
祇園に比べて今は風情があるだけで繁華街ではないからいいっちゃいいか。。
幕末には新撰組のほかに、西郷隆盛や久坂玄瑞も出入りしていたそうです。
「角屋」は文化財であり、今は内部を公開していて美術館となっています。
「輪違屋」は現在も営業されているそうで、内部は勿論見れません。
「輪違屋」の近くには歌舞練場がありましたが
いまはデイサービスに建て替えられてしまったようです。
時代を感じるなぁ…

一頻りチェックしておいた新撰組関連の史跡は廻ってしまったぞ、と
ふらふらしていたら壬生寺の近くで「冷やし飴」屋さんを見かけたので
暑くて喉も渇いたし、と思って店を覗いてみるとおばあさんが一人でお店番。
冷やし飴は関西では有名?な生姜飲料です(ザックリ
小が50円で大が100円なので大を注文。
ジョッキになみなみと注がれて、薄っすらシャーベット状になっていて
涼を取るにはちょうど良いです。
まぁこのご時勢、自動販売機がそこかしこにあるので
「冷たい飲み物」なんてのはどこでも手に入りますがね。
冷蔵庫の普及する前は大層重宝されただろうなぁ。
店主のおばあさんが話好きなようで色々話してくださいました。
戦争が終わってすぐに借金をして冷やし飴を作る冷蔵庫を買ったことやら、
昔は近所に幾つか冷やし飴屋があったけどほとんど無くなってしまったことやら、
この商売で頑張って家を建てた話やら年金を貯めて色々海外旅行へ行った話しやら。
おばあちゃんももう齢80を過ぎているとのことで
このお店もいつまでここで冷やし飴を売っていてくれるのかなぁなんて思ったり。
[ 2014年02月11日 21:55 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/22】西光寺

龍源寺から調布飛行場沿いに南へちょっと走って次の寺へ。
西調布駅近くにある西光寺へお参り。

14:08 西光寺到着

H25062204西光寺

■長谷山聖天院西光寺
創建:1396年
宗派:天台宗
本尊:阿弥陀如来

西光寺は、1396年に石原聖天坊法師(幸承)により開基されたと伝えられています。
かつては聖天院と號す修験道の寺院でしたが、
現在の若宮八幡宮(調布市下石原3丁目5−1)の所にありました。
寛永年間(1624-1643)、深大寺住職弁盛上人が真言系の寺院から天台宗に改め、今に至ります。

この西光寺も新撰組所縁の寺院。
境内の入り口には近藤勇の銅像があります。
調布市「近藤勇と新撰組の会」は没後130年を記念して、
甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に坐像を建立しました。

1868年、鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻り、
近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名しました。
多摩の農家の三男から大出世です。
鳥羽・伏見の戦い以降、事態の収拾を図るべく奮闘したのが
徳川慶喜から全権を委任された陸軍軍事総裁・勝海舟ですが、
官軍が江戸へ入る前に江戸に多く残る抗戦派や脱走歩兵等の暴動を起こさせない必要がありました。
勝は官軍と江戸決戦を実行する気はおそらくこの時点でも全くなく、
いかに「徳川家を存続させるか」に重きを置いていたようです。
江戸を無血開城し、徳川家処分を有利にするためには
戦力は維持しつつ、且つ、戦力が江戸で暴走することを防ぐ必要があったので、
勝は戦力を江戸から追放していきました。
その一環が「甲州鎮撫」でした。
最初は市中取締りの彰義隊に打診しましたが拒否されたため、
上野で前将軍警護をしていた新撰組に白羽の矢が立てられました。
新選組は甲陽鎮撫隊と改称し、
新規募集の隊士を合わせた約200名を従え、
大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両で甲州へ進軍しました。
このとき、近藤は勝から「甲府で官軍を撃退できれば甲斐一国をやる」といわれたそうです。
近藤は既に大名格ではありましたが
この戦いに勝てば晴れて一国一城の主になれる、と思ったとは思えませんが。
鳥羽・伏見の戦い以降、幕府ではなくなり賊軍とされ存亡の危機に立つ徳川家に、
そんな力が無い事ぐらい近藤勇でも勿論解っていたはずです。
そこにあったのは、やはり幕府への、会津藩への「忠義」であったんでしょうね。
ちなみに、このときに新規募集された隊士は江戸の旗本ではなく、
松本良順の手引きで穢多頭弾左衛門から被差別民である穢多非人など二百人を集めてもらい、
これで部隊を作ったそうです。
旗本ら幕臣は新撰組のような正規の由緒正しい武士ではない連中とは相容れられないという、
確執・プライドがあったと考えられます。
寄せ集められた新規200人は幕藩体制の身分制度下では最低の身分であり、
徳川家への忠誠心などありませんし、戦争に対する知識や技術もありません。
純然たる「寄せ集め」だったようです。
そのような部隊で近藤は使命を全うせねばなりませんでした。
ちなみに新政府軍の前進である長州の奇兵隊の一部隊にも
屠勇隊という被差別賎民を集めて編成した部隊がありました。
靖国神社は戊辰戦争で戦死した「官軍」の御霊を祭る神社ですが、
官軍として戦った屠勇隊は祭られていないようです。
靖国参拝を外圧に屈する姿勢には否定的ですが、
彼らのような祭られなかった官軍の英霊もしっかり祭るべきだとは思いますね。

話が逸れました。
1868年3月、甲陽鎮撫隊は甲府城へ向けて出発、
途中、故郷である上石原で遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願し、
この西光寺境内で休息したそうです。
大名格の幕臣として錦を飾った近藤が、
故郷で行軍中に大名旅行のように振舞ったために甲府城に失敗したといわれていますが
近藤の人間性から察するに、どうも考えにくいですね。
甲州勝沼の戦いの敗北の責任を近藤になすりつけようとした勢力による
デマではないかな。
甲府城入りに遅れたのは事実ですが、日程的にぎりぎりの状況で、
軍人ではない寄せ集め部隊を引き連れての隊列がスピーディに行動できたとも思えません。
甲州勝沼の戦いは割愛しますが、
3月6日、甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始ますが
兵力不足に低い士気、さらにすでに城は落ちている状態で官軍と戦って
いくら甲州が徳川家の天領であったとしても勝てる戦ではありませんでした。
甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、近藤らは江戸へ敗走しました。

そんな甲陽鎮撫隊所縁の寺院です。
長いな…w
戊辰戦争勃発後の新撰組の軌跡は見ていて非常に悲しくなります。
こういう「敗戦の歴史」をしっかり学ばなかったことが
第二次大戦での甚大な被害に繋がっていくんでしょうね。
忠義と根性論で奇跡が起こるという発想はあまり好きじゃありません。

DSC_8548.jpg

境内に入ると立派な仁王門があります。
調布市内に残る唯一の仁王門で、年代も18世紀初頭と特定できる貴重な文化財です。
境内でお参りし、ご朱印をお願い。
先ほどから少し雲行きが怪しくなってきたけど、
ご朱印を頂いて、寺務所を出るとポツポツと雨が降ってきました。
自分が濡れるのはかまいませんが
ご朱印帳とカメラが濡れると一大事ですw
ビニール袋にご朱印帳とカメラを入れてせめてもの防水対策。

甲州街道を東へひた走り、環七を通って練馬の実家へ帰省。
80キロちょっとの自転車旅でした。
お参りしてると一日100キロ前後が限界です。
[ 2014年02月08日 11:17 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/22】龍源寺

武蔵国分寺から東八道路に入り、東に向かって走る。
西部多摩線を越え、野川公園沿いを南下して
人見道路を東に走ると龍源寺に到着しますが、
先に龍源寺の門前に鎮座する近藤神社へお参り。
神社といっても小さな祠のようなお社ですが。
龍源寺が新撰組の近藤勇の墓所があり、
近藤の生家・宮川家の菩提寺でもあります。
近藤神社は龍源寺から徒歩3分程度のところに鎮座しています。
近藤の生家・宮川家の跡地だそうです。
郷土史の看板は出ていますが、祭神や由来書きと言ったものはありません。
祭神は近藤勇かな、と。
左手側には勇の産湯を使ったという井戸もあります。
近藤神社で手を合わせて、いざ龍源寺へお参り。

13:32 龍源寺到着

H25062203龍源寺

■大沢山龍源寺
創建:1644年
宗派:曹洞宗
本尊:釈迦牟尼仏

開基は龍源寺のある三鷹の大沢村周辺を開いた箕輪将監と伝わります。
箕輪将監がどんな人物かは、ぐぐってるだけじゃ見つからない。
開創は1644年、府中高安寺第四世・家山東伝とのこと。
江戸時代になってから出来た寺院です。
高安寺は、開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、
室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた多摩の古刹です。

境内入り口には近藤勇の彫像が建てられています。
さすが所縁の寺院。

近藤勇は天保5年10月9日(1834年11月9日)、
武蔵国多摩郡上石原村に豪農・宮川久次郎の三男として生まれました。
幼名は勝五郎。
上石原村は現在の調布市野水、龍源寺の近く、
今は近藤神社の鎮座する辺りです。
龍源寺の境内に対にある銀杏の木は、幼少期に近藤が植えたとも言われていますが、
樹齢は300年ほどというので、伝説でしょうね。
近藤勇の父・久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、
幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、
勝五郎とその兄たちをはじめ、近在の子弟を集めて学問や武術を指導していたそうです。
天然理心流は近藤長裕を初代とする流派で、
江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていました。

このときの天然理心流宗家が3代目・近藤周助です。
近藤周助は1792年、武州多摩郡小山村の名主・嶋崎休右衛門の5男として生まれ、
1811年、天然理心流剣術2代目・近藤三助の弟子となり
1830年、流派を継いで、近藤の姓を名乗りました。

さて、勝五郎は
1849年11月11日、天然理心流剣術道場・試衛館に入門します。
試衛館は江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町25番地)にあり、
近藤家の住居も兼ねていたそうです。
現在、市谷柳町の試衛館跡には稲荷神社が残っています。
勝五郎は周助に実力を認められ、
周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗ります。
のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗りました。
詳しい年代はわかりませんが、結婚前のことのようなので
1860年より数年前のことでしょうか。
この江戸の試衛館での門弟時代に
土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、
食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一と出会います。
後の新撰組の隊長ですね。
この1849年から1860年の約10年の間に日本は激動の時代を迎えたわけです。
中国では先立ってイギリスとのアヘン戦争、
キリスト教勢力の反乱である太平天国の乱が勃発し、
極東アジアへも西欧列強が進出してきていました。
1853年には浦賀沖にマシュー・ペリー代将が率いる
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航しました。
俗に言う、黒船来航です。
当時20歳だった近藤や土方、試衛館の若者達に大いに影響を与えたと想像できます。
この黒船来航と共に「幕末」が始まりました。

1860年、勇は清水徳川家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚し、
1861年8月には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、
晴れて流派一門の宗家を継ぐこととなりました。
府中六所宮は今の大国魂神社です。
1863年、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の
上洛警護をする浪士組織「浪士組」へ参加し、歴史の表舞台に上がることとなります。
新撰組としての活躍は割愛しますが、
1868年4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。享年35。
新撰組としての活躍はわずか5年程度しかないことに
ちょっと驚きますね。
幕末史は非常に濃厚です。
斬首された首は京都の三条河原で梟首され、その後は行方不明ですが、
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされています。
一説に同志により奪還され、
愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚があります。
また、勇の甥・近藤勇五郎が父・音五郎(勇の兄)と共に勇の遺体を引き取り、
龍源寺に埋葬した、ともいわれ、
龍源寺には勇の墓があります。

DSC_8508.jpg

本堂に手を合わせ、お墓参り。
ご朱印は頂けないんじゃないかな、と勝手に思っていたのですが
寺務所でお願いすると快諾して下さいました。

朝から何も食べずに走ったりお参りをしたりだったので
近くのコンビニでおにぎりを2つ流し込んで再出発。
[ 2014年02月08日 01:49 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)

【25/06/22】武蔵国分寺

谷保天満宮から北東へ2キロほど行くと武蔵国分寺があります。
まだお参りしたことがなかったので行ってみました。

12:25 武蔵国分寺到着

旧国分寺はすでに更地になっていて、
その横を通り抜けると現在の国分寺に到着です。
立派な楼門がお出迎え。

H25062202武蔵国分寺

■医王山最勝院国分寺
創建:8世紀半ば
宗派:真言宗豊山派
本尊:薬師如来

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院です。
当時の国分寺というわけではありませんが、
「国分寺」として残っている寺院はそう多くないので、ちょっと感動。
奈良時代に街道が整備される以前の人や物品の往来は専ら河川がメインだったので
今の「県庁」のような役割を果たした国分寺は
河川近くにあることが多いそうです。
武蔵国分寺の場合は多摩川が近くにありますね。

武蔵国分寺は発掘調査の結果、
敷地は東西8町、南北5町半と推測され、諸国の国分寺のなかでも相当に大きい部類に属するそうです。
東大寺が最大で東西南北とも8町。
1333年、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた
分倍河原の戦いで焼失した後に、
1335年、義貞により、旧国分寺の金堂跡に薬師堂が再建されたものが、今の国分寺です。
現在の建物は宝暦年間(1751年-1763年)の再建。

境内は「万葉植物園」として、万葉集に歌われた植物160種を集めて造った植物園となっていて
静かな境内で植物を見ながらふらふらできてよい寺院。

DSC_8397.jpg

本堂で手を合わせて社務所でご朱印をお願い。
返却は20分後くらいになりますとのこと。
何か作業中だったのかな…
20分もあるので旧国分寺跡地を見に行く。
金堂跡は公園として整備されていて
ここに礎石があったのかな?というところに凹みがある。
これだけ周囲が住宅地になってしまうと再建は難しそうですね。
それでも時間が余るので、境内の植物を愛でる。
少し鬱蒼とした杜のような区画があるのだけれど、
この時期はすでに蚊が多い時期になっていたので
入り口だけ見て退散。
もう少し、植物の季節を調べてから行くと、面白いかも。
境内は植物が多いので、昆虫も多い、蚊も。
オオシオカラトンボもいたのでカメラでパシャパシャ。
望遠レンズもって来るべきだったなぁ。
蜻蛉が好きなので、時間を潰すにはちょうど良かった。

20分くらい経ったのでご朱印を返却して頂く。
さて、次はどこへ行こうか、と国分寺を出ると
「真姿の池湧水群」と書かれた看板があったので行ってみることに。
名水百選にも選定されているそうです。
整備された水路の水は非常に澄んでいて
国分寺にこんなにいいところがあるとは知らなかった。
「真姿の池」は平安時代、玉造小町が池の水で身を清めたところ、
病が癒えたという伝説が残っています。
小さな御社もあって、手を合わせて出発。

[ 2014年02月04日 20:47 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)


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