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【25/06/01】鶴ヶ城稲荷神社

次はどこの本にしようかなぁ、なんて悩みながら
近所の居酒屋で軽く晩酌をしつつテレビを見ていたら
NHK大河ドラマの「八重の桜」も相俟ってか、
テレビで会津若松の旅番組をやっていて
ああ、新撰組好きだから新撰組に関する寺社を特集しよう、と
うっすら絵が思い浮かぶ。
新撰組といえば壬生寺は既にお参りしたし、
後は八王子周辺のお参りをすれば纏まるかも、と思ったけど
やっぱり終焉の地、会津にも行きたいなと思い、晩酌を早々に切り上げ、
翌日、始発の上野発のやまびこに乗って目指すは郡山。
郡山からは高速バスに乗り換えて会津を目指します。

08:46 会津若松駅到着

さて、駅前でレンタサイクルがあるというので早速借りに行くと
電動式自転車(ママチャリタイプ)しかないという。
普通のでいいんだけどな…と思っていると
電動式は楽ですよ、というので、まぁ借りてみようかと
初めての電動自転車体験です。
普段スポーツタイプしか乗らないので、まず座席が低い!
ぎりぎりまで上げてもまだ低い!
あと、サドルが分厚い!
車体が重い!
うーん、これで大丈夫かな…ちょっと不安になる。
次は帰りの足を確保しておこう。
聞くと、会津若松発の王子経由の高速バスがあるというので
先にチケットを購入。
出発は17時なので効率よく会津若松を観光しましょう。

09:10 会津若松駅出発

まず目指すは新撰組終焉の地の如来堂。
新選組殉難の地。
戊辰戦争の母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと
会津に留まろうとする斎藤一らに分かれ、
このとき斎藤は数名の隊士と会津の地に残る決意をしました。
1868年年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げ
このとき全員討ち死にしたとされています。
実際には、斎藤一をはじめ数名が生き残りましたが。
そんな熾烈極まる戦いの行われた如来堂。
新撰組の終焉の地といわれる所以です。
そんな如来堂をお参りします。

09:40 如来堂到着

如来堂は会津若松駅から2キロほど、
阿賀川の畔の畑の中にある草臥れたお堂です。
自分以外観光客はいませんでした。
詳細は調べてもちょっと解らないですが
裏手には八幡神社があるので本地仏の阿弥陀如来を祭っているのかな。

ここからまた会津若松駅に戻り、鶴ヶ城を目指します。
道中幾つか寺院があるのでお参りします。

10:03 阿弥陀寺到着

七日町駅前にある阿弥陀寺へお参り。
正覚山阿弥陀寺という浄土宗の寺院です。
1603年、良然和尚が開山、戊辰戦争で堂宇が焼失し、
1871年には若松城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としました。
境内には、戊辰戦争で戦死した1300名の遺骸が埋葬されました。
この寺院には斎藤一の墓もあり、新撰組ファンが多く訪れるそうです。
ご朱印をお願いしようと思ったら不在のよう。
近くの住職は見性寺と兼任をされているようで
普段はそちらにいらっしゃるとのこと。

10:15 見性寺到着

阿弥陀寺のすぐ近くにあります。
願求山見性寺は浄土宗の寺院。
1619年、良然上人の隠居寺として草創。
戊辰戦争で堂宇は焼失し、
1973年に本堂が、1981年に観音堂を再建されました。
お参りして寺務所へ。
…インターフォンを押せども応答なし。
中に人がいる雰囲気はあるのだけど。
と思って境内を見て廻っていると中から住職が出ていらしたので
ご朱印をお願いできないか尋ねてみると
これから法事らしい、ご朱印はやっていないとのこと。
残念です。

鶴ヶ城へ向かう途中、おばちゃんに道を聞かれたが
こちらは観光客なので解るはずもなく…
おばちゃんに道を聞かれる率の高い人間です。。

10:50 鶴ヶ城到着

会津に来たからには鶴ヶ城に登らないと。
20年位前に家族旅行で会津に来て以来です。
さすがに鶴ヶ城に来ると観光客も多い。
八重の桜効果でしょうか。
東北に観光客が流れるのは良いことです。

登城前に周辺を散策すると、鶴ヶ城稲荷神社を発見。

H25060101鶴ヶ城稲荷神社

■鶴ヶ城稲荷神社
創建:1384年
祭神:宇迦魂命

1384年、葦名直盛が東黒川館 (鶴ヶ城) の鎮護として、鎌倉より移した神社です。
鎌倉の稲荷神社といったら佐助稲荷かなと思ったけど
田中稲荷のようですね、今も鎌倉にあるのかな…

鶴ヶ城は別名・会津若松城。
戦国時代を経て、蘆名氏、伊達市、蒲生氏、上杉氏、加藤氏を経て
1643年、保科正之が入城します。
保科正之は徳川秀忠の四男として生まれ、
旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育されました。
正之を3代将軍家光は有能な異母弟をことのほか可愛がったといい、
家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残したほどです。
これに感銘した正之は1668年に『会津家訓十五箇条』を定め、
第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、
以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず
生涯保科姓を通しました。
松平姓になったのは。第3代・正容になってからで
葵の紋を使用し、親藩に列するようになります。
第9代藩主・松平容保が京都守護職になり、新撰組との関わりは金戒光明寺で書いた通りです。
『会津家訓十五箇条』を頑なに守り、
江戸城開城後も引き続いた戊辰戦争の中で会津戦争へと突入してしまいます。
会津城は新政府軍の攻撃を1ヶ月間持ちこたえ、
遂に城は落ちなかったが、その後開城されました。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置され、
1873年1月、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により存城処分と決定しますが、
1874年1月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、
石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」とされ、
天守をはじめとする建造物は総て解体されました。
本丸にあった櫓の一つである「御三階」は、先の阿弥陀寺に移築され、現存しています。
1890年、明治政府は鶴ヶ城そのものの消滅を謀り、残っている城郭のすべてを競売にかけますが、
仙台の七十七銀行頭取で、旧会津藩士の遠藤啓士は寄付を募り、
私財をなげうって落札し、元城主の松平家に献納しました。
1917年には城跡の近代公園化の方針が計画され
1934年に国の史跡に指定されました。
戦後の財政非常事態解決策の一環として
1960年までには現在の形状に復旧され、
1965年に鉄筋コンクリート造により外観復興再建された、今に至ります。

戊辰戦争の影響は勿論稲荷神社にもあり、
明治に入り鶴ヶ城が解体された後は蒲生氏郷が創建した甲賀町稲荷神社に御神体を合祀安置し、
鶴ヶ城稲荷神社と改称、
鶴ヶ城が競売を免れ松平家に献納された結果、場内に再建されました。
現在は蚕養国神社の管理の下、広く人々の信仰を集めています。

DSC_7546.jpg

お参りをし、ご朱印を頂く。
ご朱印は書置きでした。
登城して上から会津の街を眺めたり、
場内を散策したり。

次は松平家墓所を目指します。
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[ 2014年01月15日 23:15 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
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