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【25/06/01】飯盛山

天寧寺を下山して飯盛山へ向かいます。
自転車で2キロくらいです。
飯盛山は新撰組の史跡とはあまり関係はないですが
会津に行ったら鶴ヶ城と飯盛山にやはり行かないと
会津に来た気分がしません。
飯盛山に登るのも20年ぶりくらい。

山頂まではずっと階段でまっすぐ登れるようになっていますが
いつの間にかエスカレーターも付いていました。
ちなみに有料で250円。
折角なので階段を使おう。
ちなみにこのエスカレーターの料金支払所でお願いをすると
参拝記念のご朱印が頂けます。

H25060103忠烈白虎隊

■飯盛山
創建:1868年
祭神:自刃した白虎隊士19名の霊

ご朱印というか参拝記念というか難しいところです。
神社でも寺院でもないし。
でも会津戦争で命を落とした白虎隊の英霊を祭るということで
広義の「神社」という認識です、自分の中で。

飯盛山の名の由来は、この山が飯を盛ったような形からと言います。
飯盛山には古くは正宗寺という寺院があり、
飯盛山の宗像神社(現:厳島神社)の別当でした。
明治の神仏分離で寺院は破壊され、飯盛山の麓には厳島神社と
幾つかのお堂を残すだけとなっています。
寺院跡というよりは白虎隊自刃の地として整備され
白虎隊記念館もあります。

白虎隊は会津戦争に際して組織された
16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。
名前の通り、他にも玄武隊(50歳から56歳まで)、
青龍隊(36歳から49歳まで)、朱雀隊(18歳から35歳まで)の
年齢に別れた4つの部隊が編成されています。
玄武隊は予備、青龍隊は国境守備、朱雀隊は実践、
白虎隊もまだ年齢的には若い男子が多かったため
青龍隊や朱雀隊の支援・補佐的な役割をする予備部隊だったといわれています。
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度でした。
会津戦争が始まると武器兵力共に新政府軍に著しく劣った会津軍は悉く戦に破れ、
支援部隊であった白虎隊や玄武隊も全線へと進軍し、
老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局となってしまいます。

白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、
士中隊一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たりましたが、
士中隊二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、
8月23日に負傷者を抱えながら飯盛山へと落ち延びました。
このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、
市中火災が鶴ヶ城の陥落に見えてとの話ですが、
総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡しました。
その後も士中一番隊は鶴ヶ城に入城して篭城戦に参加し、
9月22日、会津藩は新政府軍に降伏しました。
自刃した隊士の遺骸は、政府軍により手をつけることを禁じられ、
約三ヶ月後、村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、
その後この自刃地に改葬されました。
現在の形に十九士の墓が建てられたのは1890年のことです。

会津戦争で降伏したことで、会津藩領は会津松平家から没収され、
藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となります。
1869年、容保の嫡男・容大は家名存続が許され、陸奥国斗南に斗南藩を立て
多くの会津藩士が斗南藩に移ったと言われます。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5千石でしたが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、
実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎず、
森林は豊富であったものの、林業を有効活用することが出来なかったそうです。
また、南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、
移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたといわれています。
1871年7月14日の廃藩置県で斗南県となり、
同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅しました。

一方、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置されました。
1871年7月14日の廃藩置県では、会津地方は若松県となり、
1876年8月21日には福島県と磐前県と合併され、福島県に入れられました。
廃藩置県後も福島県と政府には軋轢があったようで、
自由民権運動が盛んであった会津地方に対し、福島県令として就任した三島通庸は
越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道の建設を推進し、
建設のための重税や労役を義務付け、また道路用地を収用するなど、住民への負担を強いました。
三島通庸は薩摩出身、戊辰戦争でも活躍した人物であり、
旧会津藩に対し、何らかの思い入れがあったのではないかと想像します。
住人へ過酷な負担を強いた三島に対しての反対運動が福島事件へと発展しました。
そんな三島ですが、山形県令時代にもインフラ整備、殖産興業で
県民に過酷な負担を強いましたが、
その結果、山形県の近代化、発展に大きく寄与したとして
山形県と福島県で大きく評価が割れている人物です。

その後の勝手な空想ですが、
会津藩の関わった旧斗南藩には現在六ヶ所村があり、
日本原燃が所有する核燃料の再処理工場があります。
福島県には福島第一原子力発電所があり6機、
第二原子力発電所には4機の原子力施設があります。
1つの県内に10機の原子力発電施設があるのは他県に比べて
多いかと思います。
福井には11機あるけど。
薩長勢力の延長である日本政府の中に
ある種の「会津藩差別」的なものがあったのではないか、と邪推してしまいます。
立地条件等、いろいろなことに起因しているとは思いますが。

話が逸れました。
ちなみに会津戦争勃発にあたって、
幕末の浦賀、蝦夷地の警備やその後の京都守護職就任によって
会津藩は領民に重い税を課していたため、
領民は会津藩士に協力的ではなかったともいわれています。
結果、会津戦争に当たって領民に徴兵をしようとしたところ失敗し、
新政府軍を歓迎したともいわれています。
幕末では藩士と領民の間に温度差があったのに
その後、会津は一丸となって長州を毛嫌いしているところが
歴史の面白いところだなぁと思ったり。
新政府の戦後処理のあり方やその後の福島事件のような弾圧によって
憎悪の念が徐々に膨らんで入ったのかなと感じます。

DSC_7700.jpg

飯盛山の入り口にはお土産屋が立ち並びます。
白虎隊自刃の地という悲劇を売りに観光に繋げる姿勢に
どことなく違和感を感じましたが。
戦国時代の合戦後よりも幕末の合戦後の方が年代的に近かったり、
死者数が多いからか、どうも「観光地」化されていることに
上手く折り合いが付けられない自分です。
傘の持ち手がゲペール銃の形をしたお土産とか
まぁちょっと買おうか悩みましたが、
きっと買っても使いません。。

階段を使えば真っ直ぐに墓前の広場に辿りつきますが、
折角なので白虎隊記念館の脇を通って登ろうと思います。
長くなったので続きます。
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[ 2014年01月19日 14:54 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
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