ご朱印びよりっ

ご朱印集めたり、イラストを書いたりと。
ご朱印びよりっ TOP  >  スポンサー広告 >  神社 >  【25/06/22】日野八坂神社

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --年--月--日 --:-- ] カテゴリ:スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

【25/06/22】日野八坂神社

宝泉寺のすぐ近くの日野八坂神社も新撰組所縁の神社なので
お参りしましょう。

H25062201日野八坂神社

■日野八坂神社
創建:不詳
祭神:素盞嗚尊

日野八坂神社の創建年代は不詳ですが、
多摩川より発見した牛頭天王像を奉遷し、社殿を建立したと伝えられています。
1398年に土淵山観音院普門寺が創建され別当寺となったといいます。
土淵山観音院普門寺は真言宗智山派で高幡山明王院金剛寺の末寺に属していた寺院。
牛頭天王社(八坂神社)だから天台宗かと思ったけど真言宗なんですね。

前にも考察しましたが、また発見「川で本尊拾った」説話。
川でも湖でも海でもいいのですが、
「本尊は古いものだが由来は解りません」ということですが
「解らない」のか「あえて濁している」のかが非常に気になります。
善光寺や浅草寺といった日本を代表する古い仏教寺院の本尊が
「海で拾ったものを飾っています」というのは非常に違和感があります。
「聖徳太子が彫りました」というのも信憑性を考えると非常に怪しいですが、
それでも「権威付け」という理由としては充分ですが、
「海で拾った」では権威付けにもなりません。
善光寺の本尊の阿弥陀三尊は
552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、
疫病流行のために物部氏によって難波の堀江に捨てられたもので
600年、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗ったといわれ、
本田善光が信濃国水内郡芋井郷に移座し、如来堂を建立して祀ったと伝わっています。
本田善光は秦河勝とも百済王善光とも言われ、
そうだとすると百済系渡来人だった可能性が高いです。
百済王善光は7世紀に亡命した百済の王族のひとりで、
百済最後の王である義慈王の子です。
倭国と同盟関係にあった百済は義慈王の子の豊璋王と禅広王(善光王)を人質として献上し、
禅広王は持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、
百済王氏の始祖になったといわれています。
百済王氏の祖霊を祭っている百済王神社が大阪府枚方市にありますが、
百済国王と進雄命(スサノオ)が祭られています。
江戸時代までは牛頭天王を祭っていたとされています。

同様の浅草寺の縁起では
628年、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像が浅草寺本尊の聖観音像で
この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養したことが始まりとしています。
土師氏は百済系渡来人と言われているので
東京湾から隅田川周辺に住み着いた百済系渡来人が奉じたのではないかと推測できます。

さて、東国には古くより渡来人が移り住んだ記録がありますが
日野市を含む多摩丘陵も百済王(高麗王とも)の一族が移り住んだといわれています。

こう見ると、百済と縁がある仏像はなぜか海(川)から発見されたという
共通点が出てきます。
他の事例もこれから調べて行こうとは思いますが。
百済王神社と八坂神社がどちらも牛頭天王を祭ることも
牛頭天王=祇園社の分布と百済系渡来人に関係が有るのかな。
この辺に付いて考察している面白そうな本がないか探してみよう。

日野八坂神社から話が逸れましたが
書いておかないと忘れちゃう。

さて、日野宿の人たちに「天王さま」と呼んで親しんできた牛頭天王社も
明治の神仏分離で別当であった普門寺から切り離されることになりました。

1858年に「武芸上達」を祈願する天然理心流の額が奉納され、
門人の筆頭には井上松五郎、続いて佐藤彦五郎、中程には井上源三郎、
末尾には沖田惣次郎(総司)、嶋崎(近藤)勇の名が並んでいます。
土方歳三が門人になるのは翌1859年のことなので
名前は入っておりません。

DSC_8346.jpg

さて、八坂神社をお参り。
社殿は木造じゃないのでちょっと味気なく感じます。
天然理心流奉納額は通常は非公開で祭礼時のみ公開されるそうです。
なので、無論拝めませんでした。
残念。
スポンサーサイト
[ 2014年01月29日 01:27 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。