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【25/06/22】西光寺

龍源寺から調布飛行場沿いに南へちょっと走って次の寺へ。
西調布駅近くにある西光寺へお参り。

14:08 西光寺到着

H25062204西光寺

■長谷山聖天院西光寺
創建:1396年
宗派:天台宗
本尊:阿弥陀如来

西光寺は、1396年に石原聖天坊法師(幸承)により開基されたと伝えられています。
かつては聖天院と號す修験道の寺院でしたが、
現在の若宮八幡宮(調布市下石原3丁目5−1)の所にありました。
寛永年間(1624-1643)、深大寺住職弁盛上人が真言系の寺院から天台宗に改め、今に至ります。

この西光寺も新撰組所縁の寺院。
境内の入り口には近藤勇の銅像があります。
調布市「近藤勇と新撰組の会」は没後130年を記念して、
甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に坐像を建立しました。

1868年、鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻り、
近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名しました。
多摩の農家の三男から大出世です。
鳥羽・伏見の戦い以降、事態の収拾を図るべく奮闘したのが
徳川慶喜から全権を委任された陸軍軍事総裁・勝海舟ですが、
官軍が江戸へ入る前に江戸に多く残る抗戦派や脱走歩兵等の暴動を起こさせない必要がありました。
勝は官軍と江戸決戦を実行する気はおそらくこの時点でも全くなく、
いかに「徳川家を存続させるか」に重きを置いていたようです。
江戸を無血開城し、徳川家処分を有利にするためには
戦力は維持しつつ、且つ、戦力が江戸で暴走することを防ぐ必要があったので、
勝は戦力を江戸から追放していきました。
その一環が「甲州鎮撫」でした。
最初は市中取締りの彰義隊に打診しましたが拒否されたため、
上野で前将軍警護をしていた新撰組に白羽の矢が立てられました。
新選組は甲陽鎮撫隊と改称し、
新規募集の隊士を合わせた約200名を従え、
大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両で甲州へ進軍しました。
このとき、近藤は勝から「甲府で官軍を撃退できれば甲斐一国をやる」といわれたそうです。
近藤は既に大名格ではありましたが
この戦いに勝てば晴れて一国一城の主になれる、と思ったとは思えませんが。
鳥羽・伏見の戦い以降、幕府ではなくなり賊軍とされ存亡の危機に立つ徳川家に、
そんな力が無い事ぐらい近藤勇でも勿論解っていたはずです。
そこにあったのは、やはり幕府への、会津藩への「忠義」であったんでしょうね。
ちなみに、このときに新規募集された隊士は江戸の旗本ではなく、
松本良順の手引きで穢多頭弾左衛門から被差別民である穢多非人など二百人を集めてもらい、
これで部隊を作ったそうです。
旗本ら幕臣は新撰組のような正規の由緒正しい武士ではない連中とは相容れられないという、
確執・プライドがあったと考えられます。
寄せ集められた新規200人は幕藩体制の身分制度下では最低の身分であり、
徳川家への忠誠心などありませんし、戦争に対する知識や技術もありません。
純然たる「寄せ集め」だったようです。
そのような部隊で近藤は使命を全うせねばなりませんでした。
ちなみに新政府軍の前進である長州の奇兵隊の一部隊にも
屠勇隊という被差別賎民を集めて編成した部隊がありました。
靖国神社は戊辰戦争で戦死した「官軍」の御霊を祭る神社ですが、
官軍として戦った屠勇隊は祭られていないようです。
靖国参拝を外圧に屈する姿勢には否定的ですが、
彼らのような祭られなかった官軍の英霊もしっかり祭るべきだとは思いますね。

話が逸れました。
1868年3月、甲陽鎮撫隊は甲府城へ向けて出発、
途中、故郷である上石原で遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願し、
この西光寺境内で休息したそうです。
大名格の幕臣として錦を飾った近藤が、
故郷で行軍中に大名旅行のように振舞ったために甲府城に失敗したといわれていますが
近藤の人間性から察するに、どうも考えにくいですね。
甲州勝沼の戦いの敗北の責任を近藤になすりつけようとした勢力による
デマではないかな。
甲府城入りに遅れたのは事実ですが、日程的にぎりぎりの状況で、
軍人ではない寄せ集め部隊を引き連れての隊列がスピーディに行動できたとも思えません。
甲州勝沼の戦いは割愛しますが、
3月6日、甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始ますが
兵力不足に低い士気、さらにすでに城は落ちている状態で官軍と戦って
いくら甲州が徳川家の天領であったとしても勝てる戦ではありませんでした。
甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、近藤らは江戸へ敗走しました。

そんな甲陽鎮撫隊所縁の寺院です。
長いな…w
戊辰戦争勃発後の新撰組の軌跡は見ていて非常に悲しくなります。
こういう「敗戦の歴史」をしっかり学ばなかったことが
第二次大戦での甚大な被害に繋がっていくんでしょうね。
忠義と根性論で奇跡が起こるという発想はあまり好きじゃありません。

DSC_8548.jpg

境内に入ると立派な仁王門があります。
調布市内に残る唯一の仁王門で、年代も18世紀初頭と特定できる貴重な文化財です。
境内でお参りし、ご朱印をお願い。
先ほどから少し雲行きが怪しくなってきたけど、
ご朱印を頂いて、寺務所を出るとポツポツと雨が降ってきました。
自分が濡れるのはかまいませんが
ご朱印帳とカメラが濡れると一大事ですw
ビニール袋にご朱印帳とカメラを入れてせめてもの防水対策。

甲州街道を東へひた走り、環七を通って練馬の実家へ帰省。
80キロちょっとの自転車旅でした。
お参りしてると一日100キロ前後が限界です。
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[ 2014年02月08日 11:17 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)
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