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【25/07/06】光縁寺

C84の新刊の原稿をしつつ、色々調べていたら
ご朱印に「新撰組」と入るものがあるというので
こりゃあやっぱり掲載したいなぁ、と居ても立っても居られず、
始発で京都に行ってしまいました。。。
こういうことをしているからお金が貯まらないんだと思います。
旅行は計画的に!

7月なんて、いっそのこと祇園祭に行きたかったなぁ…
祇園祭の時期はコミケも近いことがさることながら、
職場の忙しさがピークで旅に行く元気がありません。
ましてや有給なんて使えない…

そんな事情はおいといて、
始発の新幹線に乗れば、9時すぎには京都に到着します。

京都市内を観光するときは自転車が便利です。
京都駅西洞院口からビックカメラの前を通って進むと
「KCTP京都駅サイクルターミナル」さんがあります。
輪行しないときはこちらで自転車を利用することが多いです。
自転車も普通のママチャリからマウンテンバイク、ミニベロにあり
1日借りても2000円なので、
市内を回るには非常にありがたい。
マウンテンバイクを借りていざ出発。

レンタサイクルのすぐ裏、アパホテル京都堀川通の横には
不動堂明王院があります。
古くは真言宗の密教寺院でしたが、現在は浄土宗西山派となっています。
823年、空海が都南に東寺を賜った時、東寺よりみて鬼門にあたる地に
一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしています。
空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、
その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したといわれています。
その石が本尊であり、霊石不動と称される不動明王像で、
地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっています。
さて、この不動堂は新撰組と縁がある寺院。
1867年6月15日(旧)、新撰組は西本願寺屯所から
この不動堂のある不動堂村に屯所を移転することになりました。
しかしこの半年後の1868年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発したため
不動堂村の屯所は半年しか使われず
今は詳しい史料も残っていないそうです。
と、まずは不動堂をお参り。
ご朱印はなかったようです。

不動堂明王院から油小路をそのまま北へ100mほど進んだところにあるのが本光寺。
実相院本光寺は日蓮宗の寺院。
一般公開されている寺院ではないようだったので外観だけ。
ご朱印もないんじゃないだろうか、日蓮宗だし。
この寺院も新撰組と縁のある寺院。
1867年11月18日(旧)に油小路事件が起こった場所です。
油小路事件は新選組と御陵衛士(高台寺党)の抗争事件。
御陵衛士(高台寺党)は1867年3月10日(旧)に伊東甲子太郎が新撰組を脱退して結党した組織で、
孝明天皇の陵を守るという名目だったため「御陵衛士」。
高台寺塔頭の月真院を屯所としたために、別名「高台寺党」とも呼ばれました。
伊東は藤堂平助の仲介で1864年10月に入隊し、参謀を務めた人物で、
北辰一刀流剣術の使い手で、また水戸学を学んで勤王思想に傾倒していました。
新撰組の中で同じ攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組は佐幕派で、伊藤は勤王(倒幕)を説こうとする方針を巡って確執があったようです。
ただ御陵衛士結党による新撰組からの離脱理由は、
泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、
それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事でした。
同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、
毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、
中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。

1867年11月18日(旧)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受け、
帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されました。
伊東を接待し酒に酔わしたのは、伊東が北辰一刀流の使い手であったために
警戒をしたからだといわれています。
芹沢鴨を暗殺したときも酒に酔わせていますね。
志士は迂闊に酒に酔えない時代でした…
伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われ、
後に収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新選組と戦闘となり、
藤堂・服部・毛内が死亡しました。
残った同士は薩摩藩邸に逃亡し、これにより御陵衛士は解散しました。
伊東らの遺体は光縁寺の埋葬された後、
1868年3月13日、御陵衛士の残党によって泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されました。

ちなみに御陵衛士の生き残りは赤報隊二番隊として、
隊長を鈴木三樹三郎、御陵衛士が中心となって活動しました。
また、この事件の報復として近藤は
1867年12月18日に篠原、加納ら御陵衛士の残党に伏見街道で襲撃されて
鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができなくなりました。
近藤はさらに、1868年4月、流山で幕府軍を募集した際に政府軍に包囲されて出頭、
大久保大和と正体を偽っていたが政府軍として従軍していた加納によって看破され、
捕縛されて処刑に至ります。
なんとも因果な話です。

そんな油小路事件の舞台、の近くにあった本光寺を後にして、
次なる新撰組スポットへ。
堀川通に出て200mも走れば西本願寺に到着します。
龍谷山本願寺は浄土真宗本願寺派の寺院、通称「西本願寺」。
真宗大谷派の真宗本廟、通称「東本願寺」と区別するために
西本願寺と呼ばれることが多いですね。
浄土真宗ではご朱印をやっていない寺院がほとんどなので
勿論西本願寺にもご朱印はありませんが
記念スタンプは3種類ほどあります。
専用の用紙に一応押しましたが、
スタンプ台近くで子供たちがはしゃいでいて、
そこを割ってスタンプを押しに行く勇気がなく、
子供(とその親)の集団が移動するまでしばしの休憩。

西本願寺の歴史は割愛して。
1864年6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛したことによって
新選組の名は一躍天下に轟くこととなります。
8月には禁門の変の鎮圧に参加し、働きが評価され、
朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されました。
9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させ、
新選組は200名を超す集団へと成長しました。
人数が増加したことに伴い、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転し、
約2年ほど、新撰組の屯所として利用されることとなりました。
集会所は現在の総合庁舎と参拝会館の辺りにあったそうです。

新撰組が西本願寺に移ってきたことで
西本願寺の僧侶は大層迷惑したそうです。
境内で武芸鍛錬するだけでなく、スタミナをつけるために獣肉を食し、
200人からの大人が生活するのですから多くの残飯も出ます。
その残飯の処理をさせるために境内で豚を飼い、またそれを食す。
さらには境内で捕縛した志士の拷問や
規律を破った隊士の粛清もするのです。
そんな新撰組との共同生活に嫌気が差した本願寺は
全額負担で不動堂村に新しい屯所を作ったわけですから
どれほど本願寺側が頭を悩ましたか解りますね。

本願寺の寺務所では冷たいお茶をサービスして頂けるので
喉の渇きを潤せました。
7月の京都は暑い。

西本願寺をお参りして次の寺院へ向かいます。
堀川通をそのまま北上して四条通で左折すると
嵐山本線の四条大宮駅に着きます。
綾小路通に入ると目的の光縁寺が見えてきました。

10:50 光縁寺到着

H25070601光縁寺

■満月山普照院光縁寺
創建:1613年頃
宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来

浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。
こちらも新撰組と縁の深い寺院です。
光縁寺は新撰組が屯所とした壬生寺や前川邸から徒歩5分と近く、
門前近くには新撰組の馬小屋があり、毎日門前を隊士たちが往来していたそうです。
また、この寺と山南啓介の紋所が同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であったことから
山南と当時の住職良誉上人との交際が始まり、
亡くなった隊士の埋葬を依頼したのではないかと言われています。
過去帳には、隊士のほか新選組に縁のある人を含めて28人の記載があり、
墓地には四基の墓が現存しています。
墓地は史跡でもありますが、現役の墓所でもあるため、
静かに参拝するように注意書きが。
とはいえ、この日は自分しか参拝客は居ませんでした。
拝観料ではないですが、維持費として100円を納めてお参り。
ご朱印をお願いして墓地へ。
新撰組隊士の眠る合同墓地に手を合わせました。
おお、本当に「新撰組」って入ってる。かっこいい・・・

DSC_8583.jpg

光縁寺を後にして前川邸と八木邸を外から見物。
そういえばちょっと前に八木邸で所得隠しがあったなぁ…なんて思いつつ。
やっぱり新撰組は儲かるんですねw
すぐ近くには壬生寺もありますが、
何度かお参りしているので門前から遥拝だけ。
正面の新徳寺も新撰組所縁の寺院ですが、
やはりここも「史跡」として公開している寺院ではないようです。

折角なので新撰組も夜な夜な遊びに行ったという島原へ行ってみました。
山陰本線丹波口駅東側の辺りが当時の花街だった島原。
昔、小さい頃に家族旅行でこの界隈を見た記憶がありますが
京の街の風情が残っているとはいえ、
子供を元・花街に連れて行く父親とは如何なものだろうか。
祇園に比べて今は風情があるだけで繁華街ではないからいいっちゃいいか。。
幕末には新撰組のほかに、西郷隆盛や久坂玄瑞も出入りしていたそうです。
「角屋」は文化財であり、今は内部を公開していて美術館となっています。
「輪違屋」は現在も営業されているそうで、内部は勿論見れません。
「輪違屋」の近くには歌舞練場がありましたが
いまはデイサービスに建て替えられてしまったようです。
時代を感じるなぁ…

一頻りチェックしておいた新撰組関連の史跡は廻ってしまったぞ、と
ふらふらしていたら壬生寺の近くで「冷やし飴」屋さんを見かけたので
暑くて喉も渇いたし、と思って店を覗いてみるとおばあさんが一人でお店番。
冷やし飴は関西では有名?な生姜飲料です(ザックリ
小が50円で大が100円なので大を注文。
ジョッキになみなみと注がれて、薄っすらシャーベット状になっていて
涼を取るにはちょうど良いです。
まぁこのご時勢、自動販売機がそこかしこにあるので
「冷たい飲み物」なんてのはどこでも手に入りますがね。
冷蔵庫の普及する前は大層重宝されただろうなぁ。
店主のおばあさんが話好きなようで色々話してくださいました。
戦争が終わってすぐに借金をして冷やし飴を作る冷蔵庫を買ったことやら、
昔は近所に幾つか冷やし飴屋があったけどほとんど無くなってしまったことやら、
この商売で頑張って家を建てた話やら年金を貯めて色々海外旅行へ行った話しやら。
おばあちゃんももう齢80を過ぎているとのことで
このお店もいつまでここで冷やし飴を売っていてくれるのかなぁなんて思ったり。
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[ 2014年02月11日 21:55 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)
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