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【25/2/9】小坂観音院

先日、諏訪湖に御神渡りができたというニュースを読んでから
どうも諏訪に行きたい衝動に駆られていたので
7時丁度の~特急スーパーあずさ1号で~♪
ちょっと旅立ちました。

9時過ぎに茅野駅に到着。
くっそ寒い時期なので人も少ないと思いきや
冬山登山者で電車も駅もびっちり。
すごいなー、冬山はまだ自分には早いな。

諏訪大社とは言っても四社で1つ、以前は諏訪湖周辺に
多くの社殿や寺院、宿坊を有した大きな霊場のひとつでした。
まずは東京に近い諏訪大社上社方面へお参り。
四社のうち、上社に前宮、本宮、
下社に春宮、秋宮と呼びます。

茅野駅からバスも出ているけれど、周回は1時間に1つ程度だし、
時間がもったいないのでタクシーで移動。
まぁお金はないけど。。
というわけで最初のお参りは諏訪大社ではなく小坂観音院へ。
諏訪の栄えた地域からは反対側に当たるので
こっち方面は一度も来た事がないのです。

H25020901小坂観音院

■龍光山観音院
創建:不明(9世紀中頃か?
宗派:真言宗智山派
本尊:十一面観音

創建についての詳細は今となっては不明とのことだけど、
境内の柏槇は樹齢1200年とも言われ、
空海が植えた、とも言われるため伝説的にはその頃創建か。
空海と役小角は日本中に伝説があるため、信憑性は薄いけど
真言宗の修行僧や修験者が日本の未開の地や山を切り開き
そこで修行をし、信仰を説いていたのだろうなぁ。
勿論そこには先住民も居ただろうけど、
都の治水や土木などの最先端技術を彼らに与えることで
彼らからの篤い信頼を得たことだろうし、
大和朝廷への服従をも担ったことだろう。
布教と言うのはいつの時代もそういうものです。

天台宗は国家鎮護のため、公金が多く導入されたため、
そういった地方の荘園を得るよりも
都や都市部、街道での既得利権を入手して居たようで、
例えば街道の関所の通行料、酒や味噌の酵母の販売権やら、
京の町の土地所有権まで持ってました。
天台宗が真言宗ほど地方での伝説が少ないのは
そういった理由だと自分は思ってます。
天台宗は学問所としては東京大学なようなものですし。

一方の真言宗は都から離れた高野山に社殿を有したのも
高野山一帯に鉱山を多く有し、
周辺地帯から採取される金属や鉱物、硫黄、水銀などを
販売することで潤っていた部分がある。
また、諸国の鉱山を開発するために
遊行しては地方地方で技術を与えたので
空海の井戸、空海の腰掛、空海の泉etcが多く、
またその地を荘園とすることで多くの利益も得て
天台宗と対を成す一大宗教教団になったと
自分は思ってます。
学問所としては名門私大、慶応とでもイメージすれば良いかな。

役小角の修験道は密教が輸入される以前に
山を切り開き、霊場としてきたので、
国家からも公認されていないし、
切り開いた地は後に天台宗や真言宗に奪われているため
少し気の毒であるなぁ。
後に、天狗だのなんだの呼ばれるし。
修験者や山伏もまた鉱山開発に携わり、
蔵王権現の座す吉野山の桜は修験者たちが鉱山の目印に植えたもの、
ともいわれるそうな。
修験も密教的要素が含まれると、さらなる独自の進化を遂げ、
今に伝わる修験道へと変化していったと思われます。
金峯山寺は学問所というよりは
修験者達の中継地点のような感じだなぁ、勝手なイメージだけど。

密教も修験も江戸時代に入ると統制されて
既得利権を奪われ、武力も排除されてしまい
ただただ信仰の場であり、戸籍管理をするだけの団体になって
明治を迎えてほぼ解体されますが
古い足跡を辿るのも面白いです。

自分の中では古くからの温泉地は
修験や真言宗の古い寺院があると思っているので、
ご朱印も歴史も温泉も愉しめてよいです。
古くから信仰がある場所は酒も美味しいし。
温泉が出るということは地脈の活動が活発なため
鉱脈も多いだろうし、硫黄も採れる。
そこを開発し、そこに寺社を建設する。
抗夫や労働者がその湯で身体を癒し、
往来が増えれば宿も増え、
金属加工のための鍛冶屋が生まれ、
男が増えれば遊郭もできる、
信仰の場での金属と遊郭の関係も興味深い。

と、諏訪の地の歴史も古く、
守屋山を聖地とし、洩矢神を信仰する狩猟民族の地に
農耕をし武御名方神を奉じる出雲系民族が入植し、
その後に大和朝廷の支配地になり、
そこに1200年前くらいに真言僧が布教に来たため、
諏訪の信仰は幾層にも渡って複雑です。
狩猟文化と朝廷・仏教文化は相反するもので、
その最たるが「血の穢れ」です。
農耕が盛んになると安定した食料供給が可能になり、
集落ができ、富の格差も生まれ、国家へと変わる。
その過程で日本は仏教が導入され、
仏教は肉食を禁じたため、朝廷では血は穢れとして
遠ざけられるようになります。
無論庶民の間では食されましたがw
西国は温暖のために稲作が根付き、血の穢れも浸透しますが
今と違って稲の品種改良のレベルも低く、
東国では稲作が遅れたために狩猟生活も色濃く残りました。
東日本でうどんや蕎麦が多いのは
収穫された稲は年貢として納めた為に
変わる穀物として麦や蕎麦を作ったからかな。
国家が形成されていく過程で狩猟神を祭る信仰も消えていったのですが
諏訪の地では今でも狩猟文化を思わせる祭りが残り、
独自の信仰へと発展しました。
諏訪は朝廷から見たら「陸の孤島」のような場所だったのかな。。

と、長々と推測やらなにやら書きましたが
もっと勉強しなくちゃな。
自分の卒論は諏訪信仰についてであり、
自分の氏神も武御名方なので関心が強い。

そんなわけで小坂観音院は真言宗の寺院です。
かつては諏訪大社の社坊だったので諏訪大社も真言宗。
中世には諏訪氏の祈願所にもなり栄えます。
本尊の十一面観音はその昔、諏訪湖から漁師が引き上げたものと言い、
この辺は善光寺や浅草寺っぽい。
本尊縁起のパターンとしては有名な類です。
これもなぜ漁師が海から引き上げる、という物語が生まれたのか
調べてる人いないかな~参考に読んでみたい。

ここ小坂観音院の東門は真東を向いていて
春分の日と秋分の日には諏訪湖を通って日の光が門にまっすぐに入り、
「黄金の道」とも呼ぶそうな。
方位の結界でも張ってるのかな。
現代人の自分からしたら「結界なんてw」ですが
過去にはそれを学問として信仰として本気で研究していたので
過去を知るための貴重な資料ですね。

寺院は山の少し上がった所にあるため
諏訪湖を一望できます。
御神渡りは残念ながら見れませんでした。
でも半分くらいは凍っていましたね。
写真は載せません、本には載せるかもw

諏訪御料人の娘、通称「由布姫」の所縁の寺であり、
由布姫は武田信玄の側室で勝頼の母親。
武田と諏訪についてはまた次の機会に。

小坂観音院の近くには御頭御社宮司総社があり
ミシャグヂ神を祭る祠もあります。
ご朱印の旅だったので寄れませんでした。
ミシャグヂについても次の機会にw

DSC_3284.jpg

日記なのに2時間以上もかけて書いてしまった!
いや、日記ではないけど…
お金くれたらもっとまじめに書くんだけどな。。
同人誌のほうはこういうことを書くと文字が多くて
自分が厭なのであまり書かないようにしようと思ってます。

諏訪好きなので熱く騙ってしまった。。
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[ 2013年02月17日 19:09 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)
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