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【25/2/9】諏訪大社上社本宮

小坂観音院のお参りを済ませてメインディッシュ(?
諏訪大社上社本宮へお参り。
3年前に自転車で向かった時には見事に御柱祭中で混み具合。
「今日はお宮には入れないよ」と近所の方にご忠言を賜ったので
3年前は遥拝。
幼少期に家族で一度、平成13年頃に一度(この頃はご朱印を集めていなかった
平成15年に一度、平成22年に一度(遥拝)と、
今度で5回目のお参り。
諏訪大社はお気に入りの神社のひとつである。

H25020901諏訪大社上社本宮

平成15年に頂いたものとは書き手が変わったみたい。

■諏訪大社上社本宮
創建:不明
祭神:建御名方神(本地 普賢菩薩)

創建は不明だが、日本最古の神社のひとつに数えられるくらいに古い。
詳しくはwikiを参照するとよろしいかもしれません。
祭神は建御名方神、詳しくはwikiで。

諏訪大社は南に上社、北に下社を配する神社なので
「北=上」という現代の地図に慣れてしまうと間違えやすい。
諏訪湖から富士山を拝む形で上にあるので上社、
下のあるので下社です。
上社本宮の御神体は守屋山とされてますが、
洩矢神はミシャグヂ神であり、現人神である大祝でもある。
自分でも書いていてよく分からないくらい
雑多に信仰が入り混じっているのが諏訪大社です。
一つ一つ検証するべきなんだろうけど、すでにしてる人も多いことですし。。

形の良い山を「神奈備」と呼び、神の寄り代として古代は信仰していました。
守屋山を信仰とするのはこの信仰の名残かと思います。
有名なところでは三輪山の大神神社、
また「出雲国風土記」にも記述が見られることから
大和朝廷成立以前に諏訪に入植した出雲民の信仰に拠る部分が
多いのではないかと個人的には思います。
北九州の民族が大和に侵攻する以前の西日本は
大国主命の支配する旧出雲国の勢力圏内だったのではないかという説に
今のところ自分は納得言ってるけど、文献資料は乏しいね。
今後の考古学的発見に期待。

さて、ミシャクヂ神とはなんぞやという話ですが
姿は蛇であるともいうし、柳田は賽の神であるという。
漢字で書くと「御石神(ミシャクヂ」となる。
さて、諏訪には祖霊神としてミシャグヂ神のほかにソソウ神というものもある。
ソソウ神こそ蛇の神であり、時代が進むにつれて同一視されて
ミシャグヂ神も蛇神になったともいわれる。
自分としてはミシャグヂは男根でソソウ神は女陰で
上社前宮で行われる御室神事は男女和合の祭りではないかと思う。
この辺は西郷信綱も言ってるけど。
ミシャグヂが男根であれば、象徴的な蛇であることも納得がいくので
ソソウ神こそが今に残る下社の女神、八坂刀売神と同一視できる。
ただまぁこれも後付で、下社はまったく別の神社だったと考えるけど
それは下社で考察しようかな。
まぁ男女和合を祭りとする神事も少なくないし、
飛鳥坐神社とか、五穀豊穣子孫繁栄、
縄文時代の石棒にまで通じる古い信仰の名残とも思える。

洩矢神というのは建御名方神が入ってくる以前の諏訪の神で
『諏訪大明神絵詞』に出てくる神。
伝承によれば、

「洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。
しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、
建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。
以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、
その支配下に入ることとなったという。」

wikiより抜粋w
この鉄輪の武具と藤の枝とはなんのことなのか。
諏訪地方の政権交代劇を著す物語として実に興味深い。
鉄輪と藤の枝は製鉄技術の世代交代を表現したものだという説も
一理あるかなと思う。
今でもこの鉄輪を思わせる神器が諏訪大社には「鉄鐸(サナギ」として残り、
神事の際にはこれを振るという。
銅鐸を思わせる神器で、この鉄鐸を振るわせることで
大地を震わせて恵みを祈ったのか。
真弓常忠は著書では褐鉄鉱による産鉄と、この鉄鐸を振るうことに関連付けて
古諏訪の民の製鉄技術であると指摘する。
一方の藤の枝は鉄穴流しによる産鉄方法であるといい、
藤の蔓で作った笊で砂鉄を取った、というは少々強引かなw
1356年に『諏訪大明神絵詞』は諏訪円忠によって編じられた本で、
600年近く前の出来事を記されたものが真実とも限りませんが。。
とまぁ、漏矢神に関する記述は『諏訪大明神絵詞』くらいしかないが、
洩矢神の末裔とされる守屋氏は諏訪大社の神長官であり
建御名方神の末裔で現人神である大祝諏訪氏に使える主従関係を表現しているんだろうなぁ。
守屋氏は物部守屋の子孫であるとも言われ、
ややこしくて堪らない。
まぁ研究家でもこれといった回答が示されていないので
よくわからない神様です。

ただここで分かることは建御名方神と洩矢神は別の性質を持つ神であり、
建御名方神自身は守屋山の神ではないということで、
ご神体は守屋山ではないということになる。
それを示すかのように本宮の拝殿は守屋山を拝まない。
守屋山が右側に来るように拝むのでいったい何を拝んでいるのだ、となる。
一説には過去にはその先に神宮寺があり
そこに祭られていた普賢菩薩像を拝んだとされる。
諏訪は明治の廃仏毀釈で神宮寺別当寺社坊の多くが失われ、
まぁ諏訪に限ったことではなく、長野の戸隠も小菅も水内は悉く破壊されてるし、
神仏習合の観点から諏訪を研究することは難しい。
すでに失われたお堂を拝んでいたとすると少し悲しいけれど、
自分としては拝殿のほぼ直線上にある富士山を拝む、
もしくは北口本宮浅間神社と今は合祀されている諏訪神社を拝んでいると考える。
北口本宮浅間神社の諏訪神社は浅間神社よりも古かったとされるし。
富士信仰と諏訪には関係があるとすると、
先の「藤の枝」の解決に向かえるかもしれない。

さて、祭神の建御名方神は古事記では大国主命の次男で
国譲りで建御雷神と戦って敗北して諏訪に逃げそこに籠もったという。
古事記と『諏訪大明神絵詞』では敗北者と支配者とまるで立場が違う。
古事記編纂に当たって諏訪の神を敗者に仕立て
天津神の正当性を誇示したものだろうとは想像できますね。
さりとて建御名方神は出雲系入植者が奉じた神ではないかとも思うが。

武御名方神はそもそも「南方神」で「ミナカタ=水潟」で湖の神。
また南方は宗像にも通じるので海の神、
まぁ諏訪には海ないので、北九州からの移民の系譜でもある。
西日本からの移民については上社より下社のほうに色濃いので
水の神としての性質は下社から来るものかもしれない。
時代とともに併合されたんだろうなぁ。

建御名方神は諏訪に籠もった神のため神無月に全ての神が出雲に行くのに対し、
諏訪は出向かないため、出雲と同様に「神在月」であったとし、
他の神とは一線を画すところも興味深い。
諏訪の神を封印したとも思えるけど、
721年に諏訪国は律令国家の中の信濃国から独立をし、
731年には結局元に戻るが、独自の影響力があったということかな。

また、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に奉じたことから
武神としての信仰も色濃い。
古事記編纂時期にはすでに武神としての存在感を出していたため、
鹿島の建御雷神との対決が描かれ、
中臣氏の祖である建御雷神が勝利することで中央と諏訪との主従を明確化したのだろう。
まるで建御名方神と洩矢神のようだなぁ。

と、諏訪の信仰はたまねぎの皮を剥くが如く、
剥けども剥けども先が見えないほど奥が深いものです。
一面一面をみても全体像が見えませんが
全体像を見ようにも奥行きがありすぎる。

またこんなことを3時間も書いてしまった。。orz
DSC_3351.jpg

お参りした当日は天気がよかったですが
雪も多く残り、地面が凍るわ、氷柱はあるわで
雪国を実感。
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[ 2013年02月18日 23:38 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
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