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【25/3/16】千駄ヶ谷富士浅間神社

鳩森八幡神社境内に富士塚があります。
富士塚のご朱印、というか登頂記念印。
でもご朱印っぽいので頂きましたw

H25031604鳩森浅間神社

■千駄ヶ谷富士浅間神社
創建:1789年
祭神:木花咲邪姫命

都内に現存する富士塚の中では最古のものだそうです。
江戸時代には富士講が盛んに行われるようになり
富士山の信仰の依り代として築いたのが富士塚です。
富士山の溶岩を持ち帰って築いたものだったり、元より古墳だったり、
人工の塚で江戸にも多く造られたようです。

富士山の信仰は古く、日本の宗教史を紐解く上でも重要なんじゃないかと思いますが
あまり学校の日本史の授業では宗教史は載らないので
あまり面白くないですね。。
富士山の記述は「常陸国風土記」でも見られ「福慈岳(フジタケ?」とあり
その後も「不二」「不尽」と明記されています。
「二つとなし」という字が当てられているようにすでにこの頃から日本一の山だったようです。
とはいえ、律令国家誕生以前の和国にとって東日本は外国のようなものですが
その辺の認識は当時の政府はどう考えていたんだろうか。

最も古いものとしては徐福伝説における蓬莱山か。
日本各地に徐福伝説はあるけど富士山にもあり、
富士山が東方にある三神山であるとし不老不死の薬を求めたという。
古すぎて後付感は否めませんがw

富士山が信仰の対象となってきたことは日本書紀にも書かれていて
644年、富士山麓の富士川周辺で大生部多という人物が「常世神」という虫を育てれば
富と長寿を授かるといった新興宗教が誕生します。
当時は大化の改新(今は乙巳の変?)直前で古き神を祭ることよりも
仏教を尊ぶべしというお触れがでて仏教の布教黎明期だったので
こういった「怪しき宗教組織」は討伐の対象でした。
まぁそれは今も昔も変わらないけど。
そこで仏教伝来より篤く仏教を信仰してきた渡来系豪族の秦河勝に命令が下り
大生部多を討伐しました。
秦河勝は当時の秦氏の族長で氏寺は京都太秦の広隆寺、
国宝でもある弥勒菩薩半跏思惟像を聖徳太子より賜って造営しています。
そんな仏教の徒であるため、異教徒討伐にもってこいなので
644年の秋に討伐に向かい、見事実行しています。
妄想ですが、聖徳太子より仏像を賜るほど聖徳太子の側近中の側近を
東国へ征伐に向かわせたことで
宮中の蘇我氏のパワーバランスが崩れたことにより
645年6月12日に蘇我入鹿暗殺を実行できたのではないかなともちょっと思う。
政変時に河勝がどこで何をしていたのか、なかなか興味深い。

さて、徐福は養蚕を伝えたとも言われ、富士山周辺で養蚕が盛んに行われていたとすると
常世神という虫が蚕である可能性も高く、
養蚕によって得られる利益で富が得られた可能性も高い。
また秦氏は武力や治水、土木技術のほかに養蚕を司る集団であったため、
秦氏の本拠地である太秦が絹を「うず高く積んだ」ことから付いたとも言われ、
そんな秦氏の絹利権を独占するために常世神を奉じる集団を討伐したとも考えられる。
のちに静岡周辺でも秦氏の集落が増え、神奈川の秦野市はその名の通り、
秦氏の集落である波多野郷から来ている。

秦氏が勢力を伸ばし、律令国家として日本が建国されると
806年に富士本宮浅間神社が造営されます。
ここで富士山への信仰が国家のお墨付きとなりました。
ちなみに祭神の木花咲邪姫命は火山の神であり、
火山の噴火と桜吹雪を見立てたことにより、桜の神でもあり、
養蚕の神でもあります。
京都太秦に鎮座する秦氏の氏神の木嶋坐天照御魂神社の祭神は木花咲邪姫命で
別名蚕ノ社と呼ばれ、養蚕の神です。
浅間神社の発展に秦氏の活躍があったのかは解りませんが
関係性は否定できませんね。

と、霊峰富士は古くから信仰の対象でしたが
山岳信仰や修験道の盛んな日本において、富士山が対象になるには時間が掛かりました。
今でこそ1707年の宝永の大噴火以降大きな噴火はないですが
平安期には何度も噴火を繰り返しました。
802年の延暦の噴火があり、その後に社殿の造営がされているのは
噴火によって旧社殿が失われたからなのではないかと思います。
その後も十数回大小噴火を繰り返し、1083年にやっと沈静化します。
「竹取物語」に出てくる富士山は常に白い煙を上げている、
まさに「不死の山」だっとと言えます。

火山の沈静後、鎌倉時代になり、他に遅れてやっと修験道が流行します。
実相寺の僧、末代によって初めて登頂し日大寺を築きます。
後に弟子の頼尊によって富士山興法寺が開かれ、本格的な山岳修験の霊場となります。
当時の実相寺はまだ天台宗なので、富士山の寺社利権は天台宗が独占できた、と考えられます。
村山修験が聖護院に属したことからも天台宗系で間違いないと思う。
鎌倉時代以降、足利家の名門今川氏や武田氏、小山田氏が富士山を管理し、
中でも今川氏による介入が大きかったそうです。
この頃から今川(静岡)と武田(山梨)で富士山の所有権争いをしていたんでしょうねw
結局静岡側の富士宮本宮浅間神社が富士山を支配したので
いかに今川氏が肩入れをしたか、そしてどれだけ今川氏の権力が絶大だったかが解りますし、
その今川氏を平家の末裔の田舎大名の信長が打ち倒したことが奇跡的だったかが解ります。

今川氏が滅びると富士山の支配は甲斐武田氏に移り、今川氏と結びついていた
富士宮本宮浅間神社は武田氏と戦になりますが、後に和睦、
武田氏は浅間神社側と結びつきを強めて、興法寺とは距離を置くようになり、
武田氏が滅び、時代を経て支配権が徳川に移っても状況は変わらなかったようです。
家康は戦火で失われた浅間神社の社殿造営に寄進をしますが、興法寺には特に何もせず。
江戸時代以降、冷遇された村山修験に追い討ちをかけたのが
1707年の宝永の大噴火で興法寺は全壊、後に再建されますが多くの時間が掛かりました。

その後、江戸時代に流行したのが北口本宮浅間神社中心の富士講です。
江戸時代初期に角行の修行に端を発する富士信仰は享保年間(1716年~1735年)に発展しますが、
大噴火の後に流行したことはやはり、
噴火による飢饉、経済の悪化、治安の低下から逃れるために
富士山への畏怖の念から信仰が強まったのではないかと想像します。

村山修験と富士講といった富士山信仰に打撃を与えたのが
明治政府による神仏分離令で、噴火後になんとか再興した興法寺は打ち壊され、
山頂にあった大日寺等のお堂も全て破壊されます。
山頂は八葉に見立てられ、8つのお堂があったそうですが
今はその中の大日寺は富士宮ルートの富士宮本宮浅間神社奥宮へ、
薬師堂は吉田ルートの久須志神社(薬師→クスシから)へと替えさせられました。
久須志神社の祭神が少彦名命なのはなんでなんだろうと思っていましたが
少彦名命は薬師如来と本地垂迹だからですね。
修験道の禁止によって宿坊は還俗させられ
多くの仏教美術や文化財が廃棄、売却されたため
村山修験や古の富士信仰の様子を垣間見ることはほとんどできません。
また、富士講の禁止によって吉田の御師は打撃を受け、衰退しました。

さて、富士山が世界文化遺産として「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」と
登録されておめでたいことですが、
修験道は失われ、富士講は衰退した富士山に「信仰の対象」としての意義があるのか、
宗教的文化財はもはや残り滓しかなく、
ただの観光地と化した富士山を信仰の対象と呼ぶには如何ともしがたい。
現地の住民や氏子の愛着や、今なお富士講を維持している門徒が細々と守って来た富士山の信仰を
さも日本の誇りだと、神仏分離令や神社合祀令を出した政府が言うのはどうも
盗人猛々しく思う。
まぁ、世界遺産で近隣経済が潤うことはいいことだと思いますけども。

…長すぎたw

DSC_4638.jpg

千駄ヶ谷の富士塚は登山料が掛かりませんw
上まで昇るとなかなかの眺めです。
山頂にはちゃんと奥宮もあります。
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[ 2013年06月29日 15:56 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
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