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【25/4/30】園城寺別所微妙寺

園城寺で拝観料を500円払って境内へ。
水観寺を拝観する前に払ったかが記憶にない…
水観寺をお参りしてさらに奥へ。
雨上がりなので階段がしめっていて歩きにくい。

ちょっと歩くと微妙寺へ。
まぁ園城寺の一堂宇ですね。

H25043004三井寺微妙寺

■長等山園城寺 別所微妙寺
創建:994年
宗派:天台寺門宗
本尊:十一面観音立像

慶祚大阿闍梨によって開基された寺院。
慶祚は園城寺の余慶について天台教学を学び、
993年、比叡山から円珍の門徒が追放された際、園城寺に移ったが、
慶祚の学徳を慕って多くの学徒が集まり園城寺における天台教学興隆の基となった。
慶祚の出自は中原氏。
安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われ、
明法道、明経道を司る家系。つまり学者の家系。

さて、園城寺は先にも述べたとおり、隣接する比叡山延暦寺と
長い間対立関係にありました。
山門派(延暦寺)-円仁(慈覚)-良源
寺門派(園城寺)-円珍(智証)-余慶-慶祚-明尊
円珍は和気氏、余慶は宇佐氏と新羅系秦氏の系譜、
円仁は毛野氏の一族壬生の出自、百済系渡来人の系譜なので
比叡山内での旧百済派と新羅派の代理抗争で
百済派が新羅派を追い出したのかとも思うけど、どうなんだろうか。

さて、園城寺の歴史をそろそろ考える。
古くは長等山をご神山とし三尾明神を崇拝する古代の山岳信仰があり、
7世紀に大友氏の氏寺として草創されました。
大友氏は近江に住んでいた豪族で
大陸からの渡来系だが百済人の後裔とも称されました。
大友村主は天智天皇が近江京へ遷都した際に
大友皇子の主たる支持勢力を成したと推察されています。
親百済系の天智天皇は唐・新羅連合軍と
亡国百済の復興をすべく白村江の戦いを挑むが惨敗し、
百済系移民の多くいる近江の地へ遷都します。
天智天皇が崩御すると子の大友皇子(弘文天皇)があとを継ぎ、
天智の弟・天武天皇が反旗を翻して壬申の乱が置きるわけです。
天智天皇の念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺院を近江の地に作るつもりが
志半ばで崩御し、大友皇子も壬申の乱で命を落とします。
大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、
天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した寺院が園城寺です。
開祖は天智の孫の与多王となります。
与多王は大友姓を受けて大友氏の祖となったとも言われますが、
与多王は伝説的な人物のため、与多王と大友氏の祖に時代のずれがあるようです。
ただし、大友氏が与多王、ないし大友皇子の子孫と関連があったことは伺えます。

さて、そんな百済移民の建立した園城寺に
新羅明神を祭る新羅系秦氏の後裔の円珍が入山して再興するわけです。
古くより山を信仰する民の聖地を百済系移民が乗っ取り、
さらに新羅の末裔が天台宗の寺門派を作るという流れ。
まぁ妄想ですけどね。
百済系天皇の桓武の後裔の平氏が団結したことに対し、
園城寺は源義光を支持し、園城寺で元服したことから
新羅三郎と呼ばれたように、新羅系は源氏をサポートします。
日本の政変には新羅と百済が見え隠れするとは戦前からいわれていたようですけども。
あくまで歴史の一シーンの影響を与えた可能性を視野に入れているだけで
日本を動かしたのは朝鮮半島ニダ!とはまるで思ってませんがw

DSC_6184.jpg

ちなみに園城寺の代表する僧を「長吏」と呼び、
他の寺院の別当・座主よりも一段格上である、という意識があったようです。
園城寺はまだ続きます。
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[ 2013年10月09日 23:37 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)
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