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【25/4/30】園城寺金堂

さて、国宝の金堂へお参りします。
ちなみに観音堂、釈迦堂、唐院 、護法善神堂 でも
ご朱印がいただけるようです。
ポリシーというほどでもないのですが
1つの寺院で複数のご朱印が頂けるお堂がある場合は
「あー…この先、ここに来ることはもうないかもしれない」というくらい
遠い場所でない限りは半分くらいを頂くようにしています。
最初に全部頂いてしまうと次にお参りする機会が遠のきそうなので…
あと、破産するのでorz

なので、園城寺もまた機会があればお参りに行こう。

H25043005三井寺本堂

■長等山園城寺 金堂
創建:7世紀
宗派:天台寺門宗
本尊:弥勒菩薩

国宝金堂には天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊としています。
弥勒菩薩像は秘仏なので拝観する事は出来ません。
弥勒菩薩像は三国伝来の霊仏といわれ、
中国天台宗の高祖慧思禅師から百済に渡り、
用明天皇の時に日本に渡来し、 天智天皇が弥勒菩薩像を崇拝されたと伝わります。
この辺りの件は善光寺の由来に似ていますね。
仏像は百済から日本に伝わるケースが多く感じるなぁ。

日本が「倭国大乱」といわれるように西日本では小国が小競り合いを繰り返していたこと同様、
朝鮮半島も半島南東部には辰韓十二国があり小競り合いを繰り返し、
その小国同士が各々交易し、また高句麗や中国とも関係を築いていただろうことを考えると
なかなか古代の外交事情は調べても難しい。
好太王碑によれば新羅の支配権をめぐって、
倭国と高句麗が戦争をしていることが解るけれど、教科書ではあまり載らない。
戦争に勝利し百済・加羅・新羅を破り、倭国の臣民にしたという。
その結果、百済は日本へ定期的に王族を人質によこすようになり、
半島の中で孤立した新羅は唐へ救援を求めたが、
新羅王を唐の皇族にするように求められたことで
新羅内で新唐派と反唐派による内乱が勃発し、
新唐派が勝利したことで新羅は唐と柵封体制に入りました。
日本では中大兄皇子、中臣鎌子によるクーデター(乙巳の変)が起きて
皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位し、新政権の下で大化の改新が実施されました。
ここで乙巳の変での最大の功労者である皇極天皇の子である中大兄皇子が即位せず、
弟の孝徳天皇を即位させたのか、不思議です。
孝徳天皇の時代には遣唐使や朝鮮半島との交流も行われました。
難波長柄豊碕宮を造営し、そこを都にしましたが、
653年、中大兄皇子は部下を連れ天皇を置いて飛鳥に帰ってしまい、
天皇は翌年病気にて崩御されます。
名前に「徳」がついているので「怨霊」になることを畏れたのかな。
はたして病死なのか、何者かによる暗殺の匂いもしますね。。
655年には孝徳天皇が重祚し、斉明天皇となります。
そしてついに朝鮮半島情勢が動きます。
660年に百済は唐・新羅連合軍の侵攻を受け滅亡してしまいます。
鬼室福信が百済復興のためへの救援依頼が来ます。
人質として日本へ来ていた百済の皇子、扶余豊璋の帰国を帰国させます。
と、ここで661年に斉明天皇が崩御します。
そして満を持して、中大兄皇子が即位し天智天皇となります。
662年には百済への全面的支援を発表し、
663年8月、倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争が勃発、
白村江の戦いで倭国は大敗します…
戦犯ともいえる天智天皇は唐との国交正常化を図りつつ、
668年には高句麗が唐へ滅ぼされたことによって
日本への侵略を恐れ、大宰府に防人を配備し、国内に山城を築き、
都を内地で百済系移民の多く住む近江へ遷都します。
671年には病気が悪化し12月に病死したとも、
山中で行方不明になったとも言われています。
天智天皇の死後、皇位を巡って天智の子、大友皇子(弘文天皇)と
弟の大海人皇子が対立し、
672年に壬申の乱が勃発、大海人皇子が勝利し天武天皇として即位します。

と、一連の流れを軽くメモったところで、
天智天皇がなぜ百済に執着したのかは謎です。
天智天皇の血縁に百済系がいるようには辿れない。
しいていうならば、当時すでに倭国の支配地であった百済を
唐に則られることは倭国経済に大打撃であり、
さらに百済という唐との緩衝地帯を失うことは
今度の国防政策上、常に日本海を挟んで大国唐と向き合いことになり
侵略の脅威に晒されることになるので
どんなことがあっても日本にとっての傀儡国家であった百済を
残しておく必要があったのではないか、と考える。
中国-朝鮮半島-日本の関係は常に中国の脅威にどう対抗できるか、になる。
ところで白村江の戦いで大打撃を受けた日本が
壬申の乱をすることは非常に危険な行為だよなぁ。
すでに対外戦争で疲弊した倭国で内乱を起こせば
どんな結果になろうとも唐にとっては侵略しやすい状態になる。
仮に天智勢力が反唐派で天武勢力が親唐派だった場合、
壬申の乱は唐が日本侵略をするための足がかりであったのではないか、とすら思えてくるなぁ。
応仁の乱から始まる戦国時代に日本に
イエズス会のポルトガル人宣教師ザビエルがキリスト教の布教したり
中国船に乗ったポルトガル人が火縄銃を持ち込んだことは
文化侵略や武器を輸入することで内乱を悪化させ疲弊させたところを
どちらかが攻め込んで日本を侵略するつもりだったのだと考える。
当時、世界はポルトガルとスペインによる世界分割、デマルカシオンという、
教皇によって2つの大国による支配を許可されていたわけで、
日本もヨーロッパによる侵略の危機があったわけです。
信長が天下統一を目指したのは、それをキリスト教宣教師によって
聞いて知っていたからなんじゃないかと、まぁ想像ですが。
幕末の一連の動乱もイギリスとフランスの代理戦争ですし、
楽して他国を支配するためには
その国同士で二分するような内乱をさせておけばいいのです。
壬申の乱はそういう一面があったと考えると面白い。
なので政権の移り変わった倭国のこの時代、
蘇我氏-天智天皇-天武天皇-藤原氏と
その背後で誰がサポートしたのかを調べるのも新しい発見があるかも。
天智は実はだれそれの子で、とか
扶余豊璋が藤原鎌足だ、とか
天武が実はだれそれの子で、という考察も好きだけど。

園城寺は通称「三井寺」といい、
この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから
「御井」の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという、とのこと。
その井戸は金堂西側の閼伽井屋にあり、霊泉は今も水が湧いています。
「閼伽」は仏教用語で水のこと。
寺院建立以前はこの泉そのものが信仰の対象だったのかな。

園城寺といえば僧・頼豪も有名ですね。
園城寺の戒壇創設を天皇に請願したが、延暦寺の反対により実現せず、
怨念を抱いて断食して命を絶ちました。
その後、延暦寺の経典を食い破る鼠となって現れ、
妖怪鉄鼠となりました。
この時のねずみの霊を祀っているのが十八明神社、
別名「ねずみの宮」といい、
北の比叡山の方向を向いて建っているとも伝えられています。

DSC_6223.jpg

さて、金堂をお参り。
国宝といわれるとちょっと気持ちが厳かになる小心者。
金堂横の寺務所、お土産も売っている、でご朱印のお願い。
紙が書きやすいと喜ばれたw
別に自分が漉いたわけではないけど
ちょっと自慢げになる瞬間である。

園城寺をだらだら考察しすぎた…
空前の古代史ブームなので仕方ない。
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[ 2013年10月12日 23:45 ] カテゴリ:寺院 | TB(0) | CM(0)
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