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【25/5/1】玄武神社

船岡山を後にして、さてどこに行こう。
京都は何度も行っているのでどこへ行こうか迷います。
で、ああ、あのときに行っておけば…となることも多々。

少し行けばそこかしこに寺社はあるのだけれど
歴史が古かったり所縁が深かったり、なるべく手当たり次第に、
というお参りよりは興味があるところからお参りしています(主観
と、先に出た玄武神社にお参りしよう。

H25050105玄武神社

■玄武神社
創建:878年
祭神:惟喬親王

祭神は文徳天皇第一皇子・惟喬親王でちなんで「惟喬社」とも呼ばれました。
名前の由来は四神相応の北方守護の玄武からかな。
玄武が亀であり、境内に亀の像があるので「亀の宮」とも。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子だったものの
母が紀名虎の娘で紀静子で、藤原氏が台頭しだした時代に
紀氏としては後ろ盾が弱かったため
藤原良房の娘・明子が母である第四皇子・惟仁親王が皇位を継承となり
立太子できませんでした。
文徳天皇は仁明天皇の第一皇子で良房の同母兄弟・順子の子、
承和の変によって恒貞親王が廃太子になった結果
皇位を継承しました。
承和の変は藤原北家最初の他氏排斥事件で、
このときに藤原他氏のほかに紀氏、橘氏・伴氏など多くが処罰されました。
そんな良房の息のかかった文徳天皇もまた
脳卒中で崩御し、良房の娘・明子の子惟仁親王が清和天皇として即位するわけですが
文徳天皇の名に「徳」と入っているので
個人的には良房(の一派)による暗殺じゃないかと勘繰ってしまいます。
ただ、文徳天皇を祭神とする神社はちょっと見当たらないなぁ…

さて、そんな父と兄弟関係だった惟喬親王は成人すると
大宰権帥に任ぜられ、その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任します。
あまり出世したというよりは冷遇されていた感じがしますね。
体調を崩して出家した後は近江国滋賀郡小野に隠棲し、54歳で亡くなります。
生前は、在原業平・紀有常らと交流があったといわれます。
紀有常は祖父・名虎の子なので叔父さんですね。
在原業平は側室に有常の娘がいるので
みな近親者であったようですね。

社傳によれば、惟喬親王愛藏の名虎から貰った剣を
元慶二年(878)に大宮鄕鄕士星野市正源茂光が祀ったのことが始まり。
星野市正・源茂光は北区・若宮八幡宮の神職。
ただし別名を紀茂光とも言われているので
やはり紀氏所縁のものが惟喬親王を祭っているのではないかな。
承和の変で打撃を受けた紀氏にとって惟喬親王の立太子は
起死回生の最後の手段だったのではないかと思いますが
名虎は惟喬親王が3歳のときに氏に、夢は叶いませんでした。
その後の紀氏は政治の世界というよりは
文人歌人として名を残していきますが
現代において藤原氏の名前は歴史の教科書でしか見かけないけど
(一部は旧華族として財団法人やら大企業の関係者として名前は見えるけど…
「土佐日記」や「古今和歌集」のような作品が愛されているのだから
良し悪しですなぁ。

DSC_6710.jpg

境内は住宅街にあるためこじんまりとしています。
お参りしてご朱印を頂く。
社務所で軽くお話。
あまりお参りに来る人は多くない(らしい
というのに東京から来るなんて珍しいとか。
況してや自転車で東海道から来た(軽く盛っているけどもう慣れた
なんて貴重な参拝客だったらしい。

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[ 2013年10月27日 14:53 ] カテゴリ:神社 | TB(0) | CM(0)
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